2008年4月23日 (水)

『生きがい。』

昨夜西宮で買ってきた本を読みました。

 『生きがい。』 三浦雄一郎 + 豪太、小堀隆司

75歳の冒険家、三浦雄一郎さんが、
冒険や夢、家族のこと、子育てのこと、
元気に毎日を過ごすための食事の大切さ、
そして何より日々の暮らしに生きがいを見つけることの大切さ、
などについて語ったエッセイです。

数々の冒険、新記録を打ち立ててきた三浦さんですが、
肩肘を張ったところは皆無で、
何気なく、当たり前のように日課としているすごいことを、
飄々としゃべっている感じでした。

どこまでもポジティブな考え方は気持ちがいいぐらいでした。
冒険家でない者にとっては思いを馳せるしかない世界に、
実際に行って、その足で立ち、眺め、
それを日々の生活の延長線上として捉え、
まるで「昨日あったこと」のようにしゃべっている様子に、
静かに燃える青い炎のようなものを感じました。

三浦さんのようにとてつもない冒険でなくても、
日々のちょっとしたことに冒険心を持って臨めば、
昨日までとは違う今日を過ごせそうだなと思いました。

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2008年2月 2日 (土)

『Yahoo! Internet Guide Japan』

『Yahoo! Internet Guide Japan』が休刊になるみたいです。

けっこう長きにわたって愛読していた雑誌なので、
とても残念です。

この雑誌と『日経PC21』の2誌が、
ぼくのPCライフを支えてくれていました。

インターネットの普及に貢献してきた雑誌が、
インターネットの普及によって、
紙の媒体としての限界に達してしまったということなのかなあと思います。

いい雑誌だったので残念です。

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2008年1月29日 (火)

『八月の光』

お風呂でぼうっとしている時などに、
W.フォークナーの『八月の光』のことをふと思い出したりしていることがあります。

最近読んだわけではなく、
もう10年近く前に外大の授業で読んだ本で、
しかもそれほど熱心に読んだわけでもないのに、
実は印象に残っていたことを後から後から思い知らされる感じです。

アメリカ南部の町で古い因習と偏見に反抗するジョー・クリスマスや、
失踪した夫を探して旅に出るリーナ・グローヴ、
彼らを巡る閉ざされた町の住人たちが登場するのですが、
一見牧歌的な雰囲気の中で悲劇が起きる(起きている)のです。

 「人間というものは現に持っている面倒な問題には耐えられても、
 これからぶつかる問題には恐怖を感じるものなんだ。
 だから慣れた面倒ごとにすがりついて、
 新しい面倒ごとに入ってゆこうとしないんだ……」

というところなども考えさせられました。
細かい部分は覚えていないのですが
自分でも気づかないうちに全体的な印象が強く残っていたみたいです。

全体的な印象というのは、「蠢いている」感覚です。
登場人物の胸のうちで苦しみが蠢き、
小さな町に様々な事情を抱えた人間が蠢き、
悪しき因習がそこかしこに蠢いています。

だけど悲劇の奥底に希望が感じられるのです。

この本に対してこんなにも強い想いを持っていたなんて、
自分でも驚きです。

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2008年1月19日 (土)

短編。

今日は短編をいくつか読みました。

強制的に翻訳から離れるためであると同時に、
翻訳力をつけるためでもあるという、
素晴らしい休日の過ごし方です。

翻訳をしていると寝ても覚めてもその作品のことばかり考えているので、
ぼくなどはなかなか並行して他の読書ができなくなるのですが、
そういう時に短編はいいです。

読むスピードもつくし、
必要であればじっくり読んでもそれほど時間がかかりません。

今日読んだのは、

 "Mabel" W. Somerset Maugham
  "The Barber's Uncle" William Saroyan
  "My Bank Account" Stephen Leacock
  "My Watch" Mark Twain

です。
どれもおそらく3000Wordsにも満たない超短編です。
それだけの分量なのに、
どれも読み応えがありました。

読んでいない本が家にあるのは幸せなことだと思いました。

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2007年10月30日 (火)

"Border Music"

今日は久しぶりに梅田に行ったので、
洋書を読む個人的キャンペーン中ということもあり、
何か一冊探してきたかったのですが、
色々と用事があったので書店には寄らず、大人しく帰ってきました。

そして部屋に戻って本棚を眺め、
以前買って読みもせずに本棚に直行していた本の中から、

 "Border Music" by Robert James Waller

を選び、これを読むことに決めました。
10年ぐらい前に村松潔さんの訳で読んで、
一気に大好きな本ランキングの上位に駆け上がった本です。

そしてそのままの勢いで原書も買ったのだと思うけど、
原書はきれいなままで、1ページも読んだ形跡がありません
(形跡がないどころか、読んでいないということははっきりと覚えています)。

そして翻訳で読んで非常におもしろかったという印象だけが残っていて、
内容は今ひとつ覚えていません。
ということは、わざわざ買うまでもなく洋書はすでにあるのだし、
読み返すにはちょうどいいということで、これに決めました。

ちょっとずつ読み進めようと思います。

実は今は有り難いことにとても忙しくて、
昨日みたいに眠いなんて言っている場合ではないのですが、
それでも忙しい時こそ、「読書を楽しむという原点を思い出すキャンペーン」を
開始するには絶好のタイミングと思い、
少しもたもたしながらも、どうにかこうして読む本が決まりました。

翻訳家としては当然の過ごし方のような気もしますが、
翻訳とリーディングと読書と、しばらくはこの3つが、
ぼくの毎日の活動の中心になりそうです。

ようやく抜け出せそうな予感がしています。

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2007年7月 7日 (土)

『ひのきとひなげし』

宮沢賢治の『新編 銀河鉄道の夜』に収録されている

 「ひのきとひなげし」

という短編を、先日読んで以来何度か読み返すことがあります。
スターに憧れるひなげしの傍若無人ぶりをひのきが戒めるのですが、
ひなげしは「わあい、わあい、ばかひのき」と言って聞く耳を持たず、
そんながつがつしたひなげしが危うく悪魔に食べられそうになる、
というお話です。

ひなげしは最後までひのきの言うことに耳を貸さないのですが、ひのきは

 「ちゃんと定まった場所でめいめいのきまった光りよう」

をすればいいのであって、
ひなげしがスターになりたがる必要もなければ、
ひなげしはひなげしのままで十分にスターなんだ、
というような懐の深いことを言うのです。

憧れる向上心と、身の程を知るということかなと思います。
地に足をつけて毎日の翻訳を頑張ろうと思います。

 み空の花を星といひ、
 わが世の星を花といふ。

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2007年6月28日 (木)

『新編 銀河鉄道の夜』

新潮文庫の『新編 銀河鉄道の夜』を読んでいます。

「双子の星」のチュンセ童子とポウセ童子や、
「よだかの星」のよだか、「猫の事務所」のかま猫、
「銀河鉄道の夜」のジョバンニなど、
ことごとく健気で、かわいくて、だけど孤独で、
ぎゅっと抱きしめてやりたくなるようなキャラクターばかりが出てきます。

茫洋とした不思議なイメージの中に鮮やかな情景が広がり、
そんな世界にあって孤独を感じるのは、
それぞれの登場人物が崇高な理想を知っているからだと思います。
宇宙や夜空が舞台となっているのも、
それぞれが瞳の奥に秘めた果てしないものへの憧れ、
胸に抱えた遥か遠くて手が届かないものに対する諦め、
といったものの表象という感じがします。

広く暗い宇宙で健気に生きている名もなく小さな彼らの物語を読んで、
カタルシスを感じたように思いました。

小学生ぐらいの時に読んだ記憶のある話もありますが、
当時はそれほど強い印象を受けませんでした。
子供の時にこそじっくりと読んでおきたい作品だと思います。

 み空の花を星といひ、
 わが世の星を花といふ。

まさに「ガラスよりも水素よりもすきとおって」いました。

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2007年4月16日 (月)

習慣をつける。

リーディングや翻訳以外に本を全然読めていないので、
これじゃいかんと思い、
少しずつでも時間を確保して、短篇を読むことにしました。

まずは、アガサ・クリスティの『ポアロ登場』です。

と思い立ったのが先週の半ばぐらいだったのですが、
本は手元に用意したまま、実はまだ読み始めてすらいません。

リーディングは時間との競争という側面もあるので、
ちょっとでも先に進みたいと思ってしまって、
いくら短篇とはいえ、落ち着いて読書をしようとはなかなか思えないのです。

でも一日に一度バランスボールに座る習慣はどうやらついてきたので、
短篇を読む時間を取ることも、それほど難しくはないはずです。
初めのうちは強制的にでも過ごし方を変えることで、
そのうち習慣になって、気持ちの面でもゆとりが出てくるだろうという魂胆です。

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2007年4月12日 (木)

ヴォネガット。

読み終えて、フワフワと全身を包み込まれたような、
遠くに何か見つけた気がするんだけど身動きが取れないから捕まえに行けなくて、
しょうがないから座り込んで考え込んでしまいたくなるような、
そんな不思議な感覚にとらわれるのがヴォネガットの作品でした。

『タイタンの妖女』で挫折したのが最初でしたが、
「アラスカ」も読んでいた『猫のゆりかご』で何となくソワソワした気分にさせられ、
『プレイヤー・ピアノ』でその面白さに気づいたばかりでした。

気づいた面白さは正体不明の曲者でした。
突き放したような冷たい文章かと思えば、
そのずっと向こうの方に優しさが見えてきたり、
素っ頓狂なアイデアで煙に巻かれるのかと思えば、
それはとても気の利いた設定だったり、
全部が後から気がつくことばかりでした。

 ヒントはここに書いておいたから、後は自分たちで考えなさい、

と言われているような気がしていました。
ヴォネガットのオリジナリティは、もはや発明だと思います。

また一人、好きな作家が亡くなってしまいました。

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2007年3月30日 (金)

読書不足。

ここ数週間、読書を楽しむ時間を全く取れていません。

上下巻あわせて1000ページを優に越える本を読み始めていたのですが、
それも上巻を読み終えたところで止まったままです。

たとえば電車に乗るとか、どこか外で誰かを待つとか、
本気で翻訳に取り組むことを諦めざるを得ない時間帯があれば、
その間は本でも読もうかということになるのですが、
ぼくの平均的な一日の中にそういう時間帯はほとんどないので、
となると、原文を読み返したり、調べものをしたり、
机には向かっていなくても、常に本気で翻訳に取り組んでいます。

それはいいことなのか、もうちょっとどうにかした方がいいことなのか、
悪いことではないと思うけど、これでいいというわけでもないような気がします。

読みたい本が溜まってきました。

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2007年3月 1日 (木)

『吾輩は猫である』

一ヶ月近くかけて『吾輩は猫である』を読みました。

実に楽しい本でした。
漢文調の表現が至るところに散りばめられてあって、
意味を読み取ることが難しい箇所もありましたが、
総じて言えば、実に楽しい本でした。

十一章から成っているのですが、
もともとは第一章にあたる部分だけを読み切りの予定で「ホトトギス」に発表し、
それが好評だったためにあと十回書いたという経緯があるようで、
長編としての筋があるわけではなく、
十一のエピソードが語られているといった感じでした。

とても有名な作品ですが、
最後まで読んだ人は実はあんまりいないんじゃないかと思います。
なんとなくそんな気がするだけですが……。
ぼくは今回初めて最後まで読みました。

そしてラストは衝撃的でした。
もしかして、もしかして……と思いながら最後の数パラグラフを読みました。
これから読もうという方もいるかもしれないので内容には触れませんが、
スリリングなラストだった、ということだけ言っておきたいと思います。

長い作品だし、非常に読み応えがあって、
一気に読もうとせずに、たとえば一章ずつ読むとか、
気長に読むのがコツだと思いました。
難しくてよく分からないままに流し読みをしてしまった箇所もたくさんあるので、
またちょっとずつ時間を見つけて読み返そうと思っています。
一回読んで終わりにするのではなく、
違った角度から読んだり、適当な箇所だけ選んで読んだり、
登場人物の誰かに焦点を当てて読んでみたり、
色んな楽しみ方のできる小説だと思います。


 >>> Power Push 『吾輩は猫である』

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2007年2月 2日 (金)

『貴婦人Aの蘇生』

『博士の愛した数式』でおなじみ、小川洋子さんの『貴婦人Aの蘇生』を読みました。
不思議な物語でした(村上春樹的不思議さです)。

伯父さんが遺した動物の剥製に「A」の文字を刺繍し続ける伯母さんと、
一緒に生活することになった大学生の姪の暮らしぶりが、淡々と綴られています。
伯父さんの遺した剥製のコレクションは専門家も驚愕するほどで、
そこにコレクターが現れ、そんなこんなのうちに、
その伯母さんが実はロマノフ王朝の最後の皇女なんじゃないかということが
世間の知るところとなって物語は展開していくのですが、
周囲が慌しくなる中で当の伯母さんの立ち居振る舞いは非常に落ち着いていて、
そのギャップが、現実の世界と没落したロマノフ王朝、生命と剥製、
といった二対を象徴しているように感じました。

物語が展開を見せても文体はどこまでも淡々としていて、
だけどそこには静かな主張と澱みない自信がうかがい知れ、
低速ながらも初速と終速の差がなく、どこまでもまっすぐに進む、
といった感じを受けました。

他にも何人かの主要人物が登場するのですが、その誰もが、
哀しみを刻みつけた者としての優しさを持ち合わせていて、
じんわりとこみ上げてくるものがありました。

このエンディングと、タイトルの「蘇生」という言葉を考えたとき、
とても哀しい物語だと思いました。

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2006年9月30日 (土)

『馬』

図書館で小島信夫の『馬』を読んできました。
不思議というか何というか、なんとも奇妙な物語でした。

借金を返済するために毎日遅くまでせっせと働く夫と、
家の中のことを一手に引き受けている奥さんが二人で暮らしていて、
ある日突然、奥さんが家の建て増しをすると言い出し、
夫のあずかり知らないところでその話はどんどん具体的になっていき、
夫はそのうち大工の棟梁にも頭が上がらなくなり、
一方で奥さんは棟梁から「ダンナ」と呼ばれるなど妙に存在感を増し、
そして実際に増築部分が出来上がるとそこにはなんと馬が住むことになり、
しかも馬の部屋が一番豪華で、
夫は狭い部屋にせんべい布団とともに押しやられ、
そうこうしているうちに奥さんと棟梁、
さらには奥さんと馬の関係をも疑うようになってしまい……、
というようなストーリーです。

夫が頭の中で考えていることをベースに物語は進むのですが、
その思考過程が徐々に曖昧になり、ついには常軌を逸してしまう、というか、
そもそも常軌などといったものは存在せず、
ある時を境にどんどん夫の独自のワールドに迷い込んでしまう、
といった感じでした。
結局どういうこと??? なんていう疑問は無意味なのかもしれません。

それにしても不思議な小説でした。
昭和文学全集の第21巻に収録されてます。

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2006年9月28日 (木)

『半落ち』

横山秀夫の『半落ち』を読みました。
寺尾聰が主人公を演じた映画の原作です。

寺尾聰が頑なに語ろうとしない空白の二日間を巡って、
警察官や検察官、新聞記者、刑務官といった人たちが各章の主人公になって、
それぞれの立場の熱血さで事件の解明に取り組むのですが、
物語の中心にいる被疑者の澄んだ瞳のせいもあって、
表面的には波乱に満ちながらも、物語は静かに進んでいく感じを受けました。

空白の二日間の意味は最後の最後になってようやく明らかになるのですが、
そこで初めて、それまで張りつめていた緊張感が一気に展開し、
ぶわぶわと熱い感情にさらわれそうになりました。
しみじみと深い物語で、秋の夜長にいいかもしれません。

映画は観たことがないのだけど、公開されている間、
ポスターは街でよく見かけたので、ずっと寺尾聰のイメージでした。

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2006年6月27日 (火)

『ガープの世界』

先週から引き続き、
ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』(上)を読んでいます。

この作品も他の作品と同じく長いのですが、
「小説は長ければ長いほど面白い」と言う作者の真意が、
ちょっとだけ分かる気が、時々します。

日常を描いている、ということと関係があるんじゃないかと思います。
登場人物のそれぞれにそれぞれの物語があって、
主人公と呼ばれる人たちの物語を中心に、
全ての物語が展開していって、
そして全体として大きな流れを形成していくという感じです。

そういう登場人物たちの物語である日常には、
結局どういうこと? という視点から見ていては意味を成さないことも
当然含まれていて、だから自然と長くなるんじゃないかと思います。

結局どういうことでもないことが、
ぼくたちの日常にはたくさんあります。
むしろ、特にどういうことでもないことだらけです。

アル・パチーノが、『セント・オブ・ウーマン』の中で、
「足がもつれても踊り続ければいい」というようなことを言っていましたが、
そういうことだと思います。
足がもつれることもあれば、足などもつれるはずもないこともあり、
それでもぼくたちは変わらずに日々を暮らしています。

大したことのない色んな出来事が綴られつつ、
もちろん大した出来事もあり、そんな小説を読みながら、
いつの間にかそこに暮らしている登場人物に感情移入していたり、
小説世界そのものに入り込んでいたりします。

最近は真面目に猛翻訳中なので、
あんまり読書の時間も取っていないし、
それなのに時々誰が誰だったか分からなくなって戻ったりしているので、
あんまり進んでいません。
でも今のところ、おもしろいです。

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2006年6月11日 (日)

『しろばんば』2

『しろばんば』を読んで思ったことをもう一つ。

夜になって嵐がひどくなり、
おぬい婆ちゃと二人で暮らす洪作も不安で眠れないのだが、
おぬい婆ちゃは戸締りの確認をしたり、夜食のおにぎりを作ったり、
そしてそこに村の人たちが見舞いに訪れ、村や隣家の様子を報告し、
また次の家に見舞いに行くという場面がありました。
おぬい婆ちゃが作ったおにぎりは、眠れない洪作に食べさせるだけでなく、
嵐の中をお見舞いに来てくれる村の男たちに食べてもらうためでもあったのです。

日本では梅雨が明けると本格的な台風シーズンに突入し、
高齢の方が田んぼや隣家の様子などを見に行って亡くなるという
悲惨な事故が毎年のように繰り返されています。
そういうニュースをTVや新聞で見聞きするたびにぼくは、
見に行ったところで防げる被害ではないのだし、
台風が通り過ぎるまで家の中でじっとしていてくれたらいいのに、
と思っていました。

だけど『しろばんば』を読んで、
それは何か大切な観点を見落としたまま、
いかにも自分勝手で独善的な感想だったと、
はっとさせられました。

村や町という共同体に生きる一員として、
仲間や生活基盤の無事を確認するということは、
当然のことだった時期があったのだと思います。
今は、自己責任に任されているというか、
隣近所との付き合いが希薄な場合が多く、
おせっかいはむしろ疎まれます。

どちらがどうということではなく、
周囲を案じるという今では流行らない姿勢を
高齢の人たちが貫いていることの意味をぼくは軽んじていたように感じ、
恥ずかしく思いました。

もしかしたら小説の中で書かれている洪作の気持ちは
洪作がその時その時に感じていたことではなく、
作者である井上靖が大人になって分かったことなのかもしれません。
だけど洪作たちは、大人たちが引率する共同体の中で成長し、
その時には何も分からなくとも、
大人になってから色んなことの意味に実感として気づくための経験を
毎日積んでいるのだと思います。
誰に押し付けられたものでもなく、
自然に出来上がった共同体が生活環境としてそこに在るというのは、
とても有り難いことのように思います。

郷愁や感傷といった枠には収まりきらないスケールの物語だと思いました。

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2006年6月 9日 (金)

『しろばんば』

すごい本を読んでしまった。
井上靖の『しろばんば』です。

小学校低学年の時の国語の教科書に、
一部抜粋が載っていたのを覚えています。
正月のどんど焼きといって、
お飾りや書初めを集めて田んぼの一隅で燃やすという、
子供たちにとっては一大イベントのシーンです。

そこで腕白坊主たちが、火の中から一学年上の女の子の書初めを
木の棒で引っ張り出し、書いてあった言葉をみんなで連呼して
囃し立てる場面があるのですが、
ぼくは勝浦の家の近くの広場で毎年行われている
お盆の風景と重ね合わせて覚えていました。

洪作という男の子が主人公で、
曽祖父の妾だった「おぬい婆ちゃ」と一緒に暮らし、
伊豆湯ヶ島の自然の中で成長していく物語です。

大人たちにとっては日常の何気ない風景が、
子供たちにとってはどれだけ驚愕の連続か、
冒険を恐れない子供たちを温かく見守る大人たちの目、
怒られながらも好奇心を抑えられない子供たち、
知らなかったことをちょっとずつ知っていく時の戸惑い……。
誰もが経験し、覚えている「匂い」を懐かしく思い出すと思います。

ぼくが小学校の先生なら、
丸々一年をかけてでも子供たちと一緒に全部読みたいと思いました。
現代の都会の子供たちがこうした田舎の風景や伝統と無縁なら、
一つ一つ説明してあげてでもイメージを持たせてあげて、
ここに描かれていることを小さな胸に届けてあげたいと思いました。

小学校の時に『しろばんば』を読むということは、
何ものにも変えられない経験になるんじゃないかと思います。
小学生のお子さんを持つ大人の人にもぜひ読んでもらいたいです。

たとえばぼくが翻訳家になろうと決めた時に直接的なきっかけになった
F.カーターの『リトル・トリー』などもよく似た雰囲気はあるのですが、
舞台設定が日本でないという点でやはり決定的に異なります。

ぼくは『しろばんば』を読みながら、
本宮の川で遊んだことや、夏になって親戚が古座に勢ぞろいしたことや、
お盆になると近くの広場で供え物を燃やしたこと、
商店街を見下ろすベランダに出てねずみ花火をしたことなどを、
ずっと思い出していました。
思い出すものがある時には、そこには思い出す人もいるものです。
それはきっと豊かで有り難いことなのだと思います。

洪作の周りでも、おぬい婆ちゃは曽祖父の妾だったということで
周囲から白い目で見られていたり、いい大人が意地を張り合っていたり、
優越感を隠そうともしなかったり、必ずしも牧歌的なだけの世界ではありません。
それでもそこには自然で健全な地域や親子のつながりがあり、
その中で子供は子供なりに、自分の立ち位置やら社会性を身につけていきました。

そしてそういう子供の頃の精一杯の経験は、
思い出としてもものすごい財産になります。
そこで覚えたことを忘れない限り、何があってもへこたれることなく、
自分の周りのことを思いやれる強く優しい子に育つはずです。
そんな気がします。

子育てなどしたこともないくせに、
育てられた経験から、そんなことを思いました。

ちょっと長いのですが、夏期休暇やお盆休みを利用して、
あるいは今すぐにでも読んでもらいたいオススメの一冊です。

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2006年6月 2日 (金)

『善女のパン』

O・ヘンリの短編集を読んでいます。

『善女のパン』という話が面白いです。
パン屋の女主人の親切心が、思いもかけない仇となってしまう話です。

オリジナルのタイトルは"Witches' Loaves"で、
「魔女、妖女、魅惑する女のパン」ということになるのですが、
邦訳は『善女のパン』なのです。

女主人はパンにメッセージを込めて、想いを寄せる男性に渡すのですが、
そこに蠱惑的(こわくてき)な意味合いはなく、
『善女のパン』というのは名訳だなあと思いました。

翻訳をしていても、タイトルは意外と、かなり難しいです。
究極の翻訳と言えるかもしれません。

よく似た話で『賢者の贈りもの』というのもありますが、
『善女のパン』に出てくる女主人が賢者とは呼ばれないところが、
この話のおかしみでもあり、かなしみでもあるように思います。

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2006年5月18日 (木)

『椿山』

乙川優三郎を読んでいます。
時代小説です。

『椿山』では、道理などいとも容易く曲げられてしまう身分の違いに戸惑い、
意を決し、その中で生きていく道を模索し、
そして見失ってしまう主人公の半生が描かれています。

他にも様々な身分、境遇の人物が主人公に据えられ、
生き難い世の中で、力を持たない弱者が暮らしに背を向けず、
希望を捨てず、哀しみと引き換えに手にした優しさを周囲に向け、
そういうささやかな幸せに満ちた作品ばかりで、
読後は心が森林浴をしたように心地よく、爽やかさが胸に染み入ります。

真面目に生きることの尊さとか、難しさ、そのための覚悟、
少しずるい部分も含めて弱さを隠し切れない人間の、
それでいて誰もが必ず秘めている可能性、
慌しい生活の中に埋もれてしまいそうな大切なものを、
作者は優しく繊細な眼差しで、温かく包み込むように見つめています。

深い深い部分で心が洗われます。
オススメです。

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2006年2月14日 (火)

a lot farther than they look...

冷たい風が吹いていたのでいっぱい着込んで、
両側に大きな住宅がいくつも並んだ小道を歩き、
少し開けた丘の上までやってきた。

眼下の町はすっかり闇に包まれている。
住み慣れた町が、いつもと違って見えた。
一日中何かと騒々しい町が静まり返っている。
家々の窓からもれる小さな灯りが温かい。

そんな夜の景色を眺めながら、
丘の上で冷たい風に吹かれていた。
見上げるとそこには満天の星が煌めいている。
白い月はまん丸で、知らない世界への入り口のように見えた。

ぼくは手元にあった石を拾って、
数ある中から一つに狙いを定め、
力いっぱい投げつけた。
  :
しばらくすると、ガサっ、という音がして、
斜面をコロコロと転がっていくのが分かった。

 思ったより遠いんだ……。

手を伸ばせば届きそうなところで輝いているのに、
石を投げても届かない遥かなる星たち。

ルーシーがやってきた。

 「あんた、そんなとこで何やってんの?」

 「あの星に当てようと思って」

 「バカじゃないの、そんなの当たるはずがないじゃない」

ルーシーはそう言い残してどこかに行ってしまった、
と思っていたら、
両手に零れ落ちそうなぐらいの小石を乗せて戻ってきた。
そして、それをいっぺんにバラバラバラっと投げつけた。

 「これぐらい投げなきゃ」

……そんな本を読んだ。

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2006年1月28日 (土)

山月記。

中島敦の『山月記』を読みました。

文春文庫の「心に残る物語――日本文学秀作選」ということで、
浅田次郎が編纂した短編集を別の短編目的で買ったのですが、
この『山月記』が一番短かったので、まず初めに読みました。

心に残りました。

頭脳明晰な主人公が、
どうしても拭い去ることのできなかった「臆病な自尊心」のために、
社会生活に適合できず、
詩人になるという夢にも破れ、
そして虎になってしまうというストーリーです。

「虎」とは、
主人公の内に巣食っていた性情が相応しい外見となって現れ出た結果でした。
秀でた頭脳を強く意識し、
その意識が過剰であることを思い知らされることを怖れ、
噴悶し、恥じ入り、恨み、怒り、
その内なる臆病な自尊心を飼い太らせていくのでした。

そしてそのことに気づいた時には虎になり果て、
少しばかり残っていた人間の心も
「虎」に支配されるのを待つばかりとなっていました。
偽りの優越感がよじれてしまったような感じです。

そこに旧友との再会が待っていました。

 :

漢文的な難解さを持ちながら、格調の高さに圧倒されました。
無駄を削ぎ落とし、文庫本にして10ページという短い文章の中に
これだけ余韻を残すストーリーを込めて、
哀しみや友情を語るのではなく、そこに存在させていました。

虎にはならなくとも、誰もが思い当たるはずの内面が描かれていて、
非常に人間的な告白でもあると思います。
偽りの優越感とは、つまりひた隠しにしていた劣等感なのかもしれません。

こんな難しくて面白い小説を読んだのは久しぶりでした。

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