2017年12月17日 (日)

懐かしいムード。

これまで一度もそんなふうに思ったことがなかったので自分でもびっくりしているのですが、この間ふと、心斎橋筋あたりの賑わいが懐かしいなあ、と思いました。最近はB.B.キングのクリスマス・セレブレーションとか、J.B.のファンキー・クリスマスとか、アトランティックのソウル・クリスマスとかをよく聴いているので、冬の心斎橋筋や御堂筋あたりのムードを思い出していたのかもしれません。

右も左も大きなショーウィンドウが続いていて、安っぽかったりあったかかったり、ぴかぴかとカラフルで、満員電車並みに自由に身動きが取れないもこもことした人の流れに身を任せるしかなくて、それでも奇蹟なのか何なのか、本屋さんでも楽器屋さんでも服屋さんでも喫茶店でも目指す店には当然入ることができて、孤独が雑踏に紛れることはなく、流れを抜け出して横丁に入ると地下に続く階段を降りてこじんまりと洒落たイタリアンやフレンチがあって、御堂筋の大通りに出ると一気にゴージャスになって……だなんて、どれだけ前のことを思い出しているのかと思います。

思い出す季節に流れていたのは斎藤和義と玲葉奈の「五秒の再会」です。ボンゴボンゴキュッキュっと洒落た歌でした。懐かしいです。

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2017年12月16日 (土)

翻訳講座(土曜クラス)14.

今日は「はじめての文芸翻訳講座」(土曜クラス)の第14回の日でした。今年の土曜クラスは今日が最後でした。

ブルックリンの街角で葉巻ショップを営むオーギー・レンが、常連客である作家の「わたし」を相手にクリスマスのエピソードを話す物語なのですが、クリスマスらしさがまだまったく出てこないうちに今年最後の講座が終わり、来週にはクリスマスがやって来て、去っていって、新年を迎え、クリスマスのことなどすっかり忘れた頃に講座が再開し、それからさらにしばらくしてからクリスマスらしさが感じられる場面に入ることになりそうです。予定どおりです。初めから分かっていたことです。だからそんなことはちっとも気にせず、面白い小説を読み進めます。

オーギーは毎朝同じ時刻に店の近くの交差点に立って、毎朝同じアングルで同じ写真を撮ることを日課にしています。それをもう12年も続けていて、撮り貯めた写真は4,000枚を超えるのですが、それをきっちり年ごとに分けて日付順にアルバムに貼って、日付もちゃんと写真の下書き添えるなど、雑な性格なのかと思っていたのにこういうところでは几帳面な一面をのぞかせます。

その膨大なアルバムを、「わたし」は延々と見せられるのです。日付が違うだけで、同じ時刻に撮った同じ構図の写真を、延々と。見せるオーギーは、どうだ? と言わんばかりに余裕の笑みを浮かべて、見る「わたし」の様子を見定めるかのように見守っているのです。「わたし」は、めくってもめくっても同じ構図の写真を見せられて、困り果てます。

その二人の心理と、その時の部屋に漂っているはずの雰囲気が、とても鮮やかに読み取れます。表わしたいものを的確に表す的確な言葉、言葉遣い、というものがあるのだなと思わされます。それがちゃんと使われていれば、ちゃんと読めばそのとおりにちゃんと読めるのです。読者に阿(おもね)ることのない自信が感じられて、とても気持ちのいい文章です。

書いたのがポール・オースターだからとか、そういうことを抜きにしてちゃんと読める力と、読んだものを再現できる力をちゃんとつけたいと思っています。それが「はじめての文芸翻訳講座」の目的です。

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2017年12月15日 (金)

セッション。

この間、晩ごはんを食べた後、リビングでB.B.キングの『A Christmas Celebration of Hope』を聴いていたんです。息子がわーわー言っていて、特にクリスマスの洒落たムードとかでは全然なかったのですが、最近また息子になんか音楽でも聴かせてやろうと思って、時々B.B.キングとか、レイ・チャールズとか、ボビー・チャールズとか、クラレンス・カーターとか、ビートルズとかよくかけているんです。

息子はミニカーとかプラレールとか保育園の先生の写真とかをテーブルの上に持ってきて、わーわー言っているばかりなので、せっかくのグッド・ミュージックも聴いているのか聴いていないのか分からないのですが、ぼくと妻はええなあ、ほんまええなあ、とか言いながら聴いています。

それで、どの曲の時だったか、ギターが盛り上がってきたところで、妻がまるで自分が弾いているみたいなふりを始めたのです。こういうことをぼくも妻もよくやるんです。「ここ、ぼく弾きやるんやで」とか言いながら。

すると、それまでB.B.キングなどまるで聴いてもいなかったみたいにミニカーの上にミニカーを積んで遊んでいた息子が、妻のギターに合わせるかのように、ピアノを弾いている真似を始めたのです。その絶妙のタイミングがおかしくて、しかもそのおかしさを自分でも分かっているみたいに嬉しそうな顔をしていて、それがさらにおかしくて三人でとても楽しい時間になりました。

こういうのも音楽の持つマジックの一つなんだと思います。気分がなんかこう、ウキウキしてきます。それは息子も一緒なんだなあと思って、それで実際にぼくも息子と一緒にピアノが弾けたらなあと思って、『大人のためのピアノレッスン(上)』を買ったのでした。

忙しい日もそうでない日も、楽しく過ごしたいものです。

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2017年12月14日 (木)

「蟻とキリギリス」

『モーム短篇選(下)』の「蟻とキリギリス」を読みました。もちろんラ・フォンテーヌのエピソード(もしくはイソップ童話)を下敷きにしたもので、生真面目で勤勉な兄ジョージ・ラムゼイと、怠惰で遊び呆けてばかりの弟トムの話です。

五十五歳で引退して田舎のこじんまりとした家で暮らし、庭の手入れやゴルフをして過ごすという計画のために、長年、大した休暇も取らずに必死に働いてきた兄のジョージが、ある日、喫茶店で浮かない顔をして座っているのを「私」が見かけます。

それで、「また弟さんのことですか?」と声をかけると、やはりそのとおりでした。トムは兄のジョージだけでなく、親類や友人、知人、いろんな人に金を無心しては豪遊し、それでも金が足りなくなると強請り、法を犯し、それでも周りに人が絶えない魅力をどういうわけか備えているのです。

そんな弟に対していよいよ愛想が尽きたというわけなのですが、結局それは、自分はこんなに頑張っているのに報われず、一方であんなに適当な弟は気楽なもんだ、しかも今回はどうやら金持ちの未亡人と一緒になったようだと、むしろ羨ましがっているのです。

頑張った人は報われてほしいけれど、それは頑張らなかった人に転がり込んでくる幸運やそれを手に入れる強運を否定するものではなく、そもそも誰かとの比較でもなく、自分で選んだ生き方に伴う結果と責任です。蟻かキリギリスか、みたいにどっちかを選択する類のものでもないし、蟻に対してキリギリスは、というような対比や優劣でもありません。話を分かりやすくするために単純にしたのだとは思いますが、必ずしもキリギリスの生き方を否定できるものでもなければ、キリギリスがその調子で冬でも遊んで暮らせる場合も、ないとは限らないということです。

どっちにしても、自分で選んだ生き方です。

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2017年12月13日 (水)

30年ぶり二度目の間違い。

昨夜、左側を向いて寝ていると背中のあたりがもぞもぞとなんだか窮屈で、あ、これは右側で寝ている寝相の悪い息子がこっちまで来たんだな、と思ってずっと窮屈なまま寝ていました。そうは言ってもぼくも少しは体勢を変えて寝たいので、寝返りをして息子の上に乗っかってしまわないように、驚きの最小回転半径で寝返りを打ったり、体を可能な限り縮こめて息子にさらにスペースを与えてあげたり、そのうえでさらに左側に体を寄せて息子にまだスペースを与えてあげたり、大変でした。それなのに、息子だと思って気を遣っていたのは毛布の塊りでした。

中学の時も、修学旅行で東京から帰る「さんふらわあ」号の中でみんなで雑魚寝をしていて、足元に新田くんが寝ていると思ってずっと膝を曲げた窮屈な姿勢で寝ていたのに、朝になって見てみると新田くんではなくて、毛布でした。

思い込みで自ら快適さを放棄してしまっていることって、他にもあるような気がします。とか。

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2017年12月12日 (火)

「ランチ」

『モーム短篇選(下)』の「ランチ」を読みました。これもおもしろかったです。観劇中に目が合った女性が、わたしのことを覚えていますか、初めて会ったのはもうずい分と前のことですけど、と話しかけてくるのです。そして「僕」は二十年前のことを思い出します。言われるまで思い出せなかったのには理由がありました。

作家である僕の本を読んで感想を書いて送ってきた彼女に返事を書くと、近くまで行く予定があるのでお会いできないかということになり、その日を暮らしていくだけでも大変だった「僕」にはちょっと考えられないような高級店でのランチを提案されます。若かった「僕」は見栄もあり、毎日の食事代をやりくりすれば何とかなるだろうと、たぶん後のことは後で考えようという、大胆というにはあまりに無責任な発想で快諾します。

そしていざ会ってみると、ちょっと期待していた下心をどうにか埋め合わせできないかなと思う相手で、かつメニューを広げてみると予想を遥かに超える高額料理のオンパレードなのですが、健康と食事には気を遣っているということなのか、ランチには一品以上は絶対に頂きませんの、という言葉にとりあえず胸を撫で下ろすのですが……、といった内容です。

一品以上は頂きませんのと言いながら何故か何度も注文することになる食事の間のやり取りが、おかしみに満ちています。そしてそれが、二十年経って彼女と思わず再会した時に思い出せなかった理由にもなっているのです。

先日の「詩人」もそうでしたが、これだけ短い話の中で、最後の2、3行がものすごい爆発力を発揮します。そこまでの展開や密度が、それだけの緊張感や方向性を持っているということだと思います。

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2017年12月11日 (月)

「ルパンお高く売ります」と「集まれ奇人ども」

ルパン第2シリーズの第46話「ルパンお高く売ります」の設定の一部は、原作『ルパン三世』の第9話「集まれ奇人ども」です。ある実験のためにどこだかまるで見当もつかない孤島に連れてこられたルパンが、その島の秘密と黒幕の正体を見破って、颯爽と島を抜け出すというストーリーです。

細かい設定や登場する人物など、原作とTVで異なるところはたくさんあるのですが、ルパンの抜け目のない観察力と、精神的・肉体的タフネス、そしてユーモアの方向性、といったところはぴったり一致しています。脚本家、演出家が見抜いたエッセンスということだと思います。そのエッセンスを軸に、TVとしての演出のためにつけ加えられたり省かれたり、アレンジされるのだと思います。

だからどこがアレンジされた部分で、どこが変えるべきでないと判断したエッセンスの部分なのかは、しっかりと分かったうえでの演出のはずです。なるほどなるほどと思えます。原作を読んで、TVや映画を観て失望したり、原作とは異なるけれど面白かったと思えたりするのは、この辺りに原因があるのかなと思います。

翻訳とは異なりますが、ヒントがいっぱいです。しかしルパンは面白いです。

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2017年12月10日 (日)

「詩人」

『モーム短篇選(下)』の「詩人」を読みました。有名人に関心のない「私」は、地位や業績の面で人から抜きんでた人物と会ったり握手をしてもらったりしたがる人が多いことに普段は我慢がならないのですが、唯一、偉大なる詩人にしてロマンティックな人物であるサンタ・アニャと会える機会が転がり込んできた時のことは、印象に残っているようです。

それでも、情熱的で尊大で生命力にあふれた若かりし頃のサンタ・アニャの詩にすっかり心服した過去を持つ「私」は、年老いた彼に会えるかもしれないせっかくの機会を丁重にお断りします。老いてなお虚栄心を失わない偉大なる先達の現在の姿を、見ないことを選択したのです。

それなのに、その詩人が住む街に所用で出かけると、当の詩人から「きみがこの街に来ると聞いた。自宅に来てくれたら喜んでお会いする」と伝言を受け取るのです。そうまでされると行かないわけにはいかなくなり、そして行ってみると自宅はイメージどおりの気高さと華麗、威厳と穏やかさをまとっていたのですが、それなのに……、という話です。

第一話の「物知り博士」同様、とても短い話なのですが、読み応えがありました。話題にのぼるだけで実際には登場しない若かりし頃のサンタ・アニャの面影は実にクールで、それから四半世紀を経て今はどんな人物になっているのか、「私」は憧れの存在とどんな対面を果たすのか、話が短いだけに顛末がとても気になるのですが、それなのに……、という展開です。

なんじゃそら、と思いましたが、こういうのもありなのかもしれません。ありなのだと思います。ありなのでしょう。予想させないというのは大事なことです。

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2017年12月 9日 (土)

卵と消しゴム。

『大人のためのピアノレッスン(上)』という本を買って、右手でドレミファソファミレドミソミド♪ 左手でドレミファソファミレドミソミド♪ とやっています。

以前、右肩を壊して左投げの練習をしていたことがあるのですが、その時も左の指先の感覚がこんなにも右と違うのかと、頭では分かっていたことを実感したものです。その再来です。右手でドレミファソファミレドミ……、の時点で準備中の左手の薬指と中指ぐらいがふるふる震えています。


肩の力をぬいて/両手をリラックスする
手の中に卵が入るように形取れ
さらに動かした時に手の甲に消しゴム/落とさずに弾くんだ
これが大体基本なのでしっかり守るように

とH ZETT Mが歌っていたのを思い出します。みんな最初はふるふる震えながらドレミファソファミレドミソミド♪ とやっていたのだと思います。たぶん。練習です。練習。イメージは卵と消しゴムです。

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2017年12月 8日 (金)

「消えた特別装甲車」

ルパン第2シリーズの第44話「消えた特別装甲車」を観ました。羊やカンガルー、コアラも登場する牧歌的なオーストラリアを舞台に、シドニー美術館からダーウィン美術館に移送される純金製の「眠れる獅子像」を巡って、ルパンと次元、美術館館長とシドニー警察のペンギン警部、そしてもちろん銭形警部が知恵比べ(一部、根性比べ)をします。

「眠れる獅子像」の移送に使うためにシドニー警察で開発されたのが、ダイナマイトもマシンガンも火炎放射器も通用しない特別装甲車なのです。ちなみに五右ェ門は今回の仕事は気が乗らないということでマイアミでバカンス中なので、斬鉄剣は使えないのです(斬鉄剣を背負ってサーフィンしていました。不二子と二人で)。

「眠れる獅子像」の移送・警備方法をめぐって意見が分かれるペンギン警部と銭形警部の対立は見ものでした。対立はしていても、一方は絶対に獅子像を無事に届けるんだと意気込み、もう一方はルパンめー今度こそは絶対にとっ捕まえてやると意気込んでいるので、ルパンと次元にしてみればいつもより二倍大変なのです。

でもそれをとぼけた調子で軽やかに欺くルパンは颯爽としていました。だけどそれを簡単には許さないのが、やはり銭型警部でした。死をも恐れない銭形警部のルパン逮捕に向けた執念はピュアなまでに一徹で、ルパンたちにとっても銭型警部との付き合いは長く、「眠れるとっつぁん」になってしまう前にルパンと次元はある決断を下し、銭型警部もある大胆な行動に出ます。いつもはドライに描かれているそんな気持ちのいい関係も、今回に限ってはちょっと直接的で、でもそれが、なんか嬉しいなあと思わせられるのです。

今回はさらに、ペンギン警部の声が肝付兼太さんなのも嬉しかったです。すぐに分かりました。そしてテンションが上がりました。

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2017年12月 7日 (木)

「Fairytale of New York」

「フェアリーテイル(おとぎ話)」という単語がこうもセンチメンタルに響くのはこの曲の影響が大きいように思います。遠い国やかつての自分たちに想いを馳せて、破れた夢を大事に抱えて、愛する人と抱き合って、寒い一日を甘えて過ごしたら、また一年、這いつくばるように日々を生きていく覚悟を当然のように決める生き方を歌った唄です。

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2017年12月 6日 (水)

「物知り博士」

『モーム短篇選(下)』の「物知り博士」を読みました。サンフランシスコから横浜まで、14日かけて太平洋を横断する客船で同室となった相手マックス・ケラーダのことは、会う前から名前を聞いただけでどうせ嫌な男だと気がしていた、というよっぽど嫌だったんだなあと思わせる告白から始まります。

そしてケラーダ氏の荷物の整頓の仕方や、荷物そのもの、しゃべり方、作法……、要するに彼のやることなすことのすべてが気にいらないのです。でもそれは「私」だけでなく他の客たちも同じで、皆がケラーダ氏のことを嫌味な男だと敬遠していて、何でも自分が一番知っていると知識をひけらかすことを皮肉って「物知り博士」と呼ぶのですが、ケラーダ氏はそれすらも褒め言葉と受け取るほど、過剰な自意識の持ち主なのです。要するにどうしようもないのです。

そんなケラーダ氏が、夕食の席で一緒になったラムゼイ氏の奥さんが身につけている真珠のネックレスを見て、「すぐに気づきましたよ。あれこそ本物の真珠だと思いました。三万ドルは下らないでしょう」と言うのです。でもラムゼイ氏に言わせると、それはどこかのデパートで十八ドルで買った偽物のはずなのです。はずなのです……。

という話です。前半で(「私」の目から見て)とても嫌味な男として描かれていたケラーダ氏が、ラムゼイ氏の奥さんの真珠のネックレスにまつわる一連のやりとりを通して、かなりの紳士であること、少なくともそういう一面も持ち合わせていることがほのめかされます。

誰かや何かを全面的に理解しているということなど、ないのかもしれません。影の部分や、奥のほうで控えめにしている部分など、本人や本当に近い人にしか分からない側面を、きっと誰もが抱えているのです。誰と接する時でもその可能性をいつも意識していたいと思います。

それにしても、13ページ程度の短い文章で、「私」やケラーダ氏、ラムゼイ氏、ラムゼイ氏の奥さんの性格を細やかに描き切るところはすごいです。

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2017年12月 5日 (火)

翻訳講座(火曜クラス)14.

今日は「はじめての文芸翻訳講座」(火曜クラス)の第14回の日でした。

いよいよオーギー・レンの物語が動き始めました。オーギーの店によく葉巻を買いに来ていた「わたし」が作家だと知り、自分も「アーティスト」のつもりでいるオーギーが、自分が撮りためている写真を見るかと言ってくるのです。そしてその膨大なコレクションを見せられるのですが……、といった展開です。

地味な展開ながら、オーギーの新たな側面を知ることになった「わたし」にとっては驚愕と呆然の瞬間が積み重ねられていきます。オーギーのことをあまりよく知らなかった頃は、何かとちょっと気の利いたことを言う茶目っ気たっぷりの皮肉屋さんだと思っていたのですが、そのアルバム・コレクションの突拍子のなさと几帳面さに「わたし」は言葉を失います。

前回の箇所と合わせて合計五パラグラフを読んだだけなのに、オーギー・レンの不思議な魅力にさっそく引きつけられます。気になる存在です。もっと知りたくなります。最高のイントロダクションです。

と同時に、人の生き方の自由さについて考えます。個人の可能性と社会の多様性が交わればいいと思いますが、交わろうが交わるまいが、生き方は自由です。ぼくは交わることよりも自由を尊重します。自由に生きる人間の魅力には翼があります。狭っ苦しい枠組みなど、歯を食いしばりながら悠々と越えます。

映画『スモーク』の原作です。

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2017年12月 4日 (月)

雪マーク。

とうとう週間天気予報に雪マークが出るようになってしまいました。いつか必ず訪れることを過度に恐れることはもうやめにしたいと思いながら、心の一部がすでに憂鬱です。普段は天気予報が当たらないと文句を言っているぐらいだし、明日の予報でも外れる可能性はまだ十分にあるのだから、今から憂鬱になる必要などないのですが、なんにつけ一応は絶望的観測をするのが癖なのは中島みゆきだけではありません。

それにしても夕方ですらないうちからすっかり暗くなって、しかも雷とか鳴ってくるし、夜は暖かい布団の中で息子の夢でも見ながら寝ようと思います(今ちょっと様子を見にいったら、「これもっててね」と寝言を言っていました。なんでもおとうちゃんが持っとったろ)。

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2017年12月 3日 (日)

ワッサン。

今日も電車に乗ってきました。松江しんじ湖温泉駅から5000系に乗って出雲大社前駅まで行き、折り返す5000系に再び乗り込み、川跡駅で7000系に乗り換え、電鉄出雲市駅に到着、隣接するJR出雲市駅から赤い電車に乗って松江駅、そして一畑バスでしんじ湖温泉駅という周回コースです。

息子は電鉄出雲市駅とJR出雲市駅の間にあるショッピングセンター内のパン屋さんで売っているクロワッサンとドーナツが大大好きで、今日も息子に手を引かれながらパン屋さんに入り、お店の人に「今日はパパとなの?」と言われてはにかみながらクロワッサンとドーナツを買い、名残惜しそうにバイバイするなど、息子はぼくの知らないうちに交友範囲を広げていました。頼もしい限りです。

息子はもっと小さい時から、長い単語は後半部分だけを残して前半部分は省略する、というユニークなルールを構築していて、今日も「ワッサン」をおいしそうに食べていました。かわいくてしょうがないんです。

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2017年12月 2日 (土)

翻訳講座(土曜クラス)13.

今日は「はじめての文芸翻訳講座」(土曜クラス)の第13回の日でした。土曜クラスも今日からポール・オースターの「Auggie Wren's Christmas Story」に入りました。「わたしはこの話をオーギー・レンから聞いた。」という冒頭の一文を皮切りに、作者が友人のオーギー・レンから聞いた(クリスマスにまつわる)話を語る、という形式を取っています。

作者が語る話のなかに登場していたオーギー・レンがいつの間にかリアリティを持って動き出し、シーンが鮮やかな色をまとう展開はすごいです。でも、よく読めば「いつの間にか」という曖昧な変化ではなく、実に劇的な変化のように思えてきます。時制の効果です。過去形と現在形の使い分けで、ぐんと印象深い文章が書けるということだと思います。

そういう印象はもちろん翻訳にも反映させたいところなのですが、まずは作品の持つそういう印象深さに気づくためにも、やっぱりたくさん読むことは大事です。しかもさらりさらりと読むのではなく、じっくりと読まないとなかなか気づきません。深い作品を深く翻訳するには、その深みを知る必要があります。

そしてそれを翻訳に反映させるには、そういうことまで反映させられる翻訳ができるようになるまでたくさん翻訳をするしかありません。そうでなければ深い作品をさらりさらりと軽薄な翻訳に仕上げてしまいます。

言葉や表現には印象がつきものなので、伝えること以上に伝わること(伝わってしまうこと)を意識する必要があります。言葉使いでその人の性格や、人物間の距離、親密度といったものが伝わります。言葉には魂を込めます。原文で表現された物語を日本語で再現する翻訳は、魂を込める適切な言葉を選ぶということでもあります。

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2017年12月 1日 (金)

宝物フレーズ。

息子がジュースを飲んだ後の紙パックに丸めた新聞紙を詰めて、外側に貼った白い紙に電車のデザインを書いて、それを何個か作ってマジックテープで連結させてやると、けっこう息子は気に入って遊んでいます。

いつもは妻が作ってあげているのですが、この間は「パパつくって」と言われて、妻が追加で作りかけていたやつを引き継いで、色を塗るところだけぼくがしたのですが、二両分塗っていると思いのほか時間がかかって、そうこうしている間に息子は待ちきれなかったのか、妻を連れて二階に遊びに行ってしまいました。

でもしばらくすると、階段から「パパがんばれー」と聞こえてきました。しかも「パパがんばれー、パパがんばれー、パパがんばれー……」と、いつまで続くのかと思うぐらい、延々と繰り返しているのです。そんなん言うてくれるんやったら一緒におってよと思ったのですが、これはと思って携帯で録音しておきました。でも録音し始めると、録音し始めたことに息子は気づいていないはずなのに言うのをやめてしまって、録音できたのは一回だけでした。

でもそれを時々再生しては、やる気をリフレッシュしています。自分たちは二階で遊んでいるから、その間にパパは電車の色塗るの頑張れー、という実に身勝手な応援なのですが、そういう事情を無視すれば、頑張れます。

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2017年11月30日 (木)

手足口病(その後)

この時期の手足口病が大人にうつることはほぼない、と言われた次の日にうつった、だけどまったく大したことがない、こんな程度か、という日記を書いた次の日、卑屈なほど控えめだと思っていた手のひらのぽつぽつが大きくなり、足の裏にもぽつぽつができるなど、ちょっと果敢に攻めてくるようになりました。

指を曲げれば関節の皺の中に埋もれていたぽつぽつが、指を曲げることに反発するほど大きくなり、足の裏のぽつぽつは、足を踏み下ろすと痛いので、ぽつぽつのないほうに重心をかけようとするとそっちにもぽつぽつが出来ているというチームプレーで攻撃を仕掛けてきています。

小さい頃にあじさいを切るときに使う鋏で手のひらを挟んでしまって血豆ができたときとか、野球をしていた頃に手のひらに血豆や水ぶくれをつくってしまったときとか、ここ数日の手のひらの感触はそんな感じです。素振りをすると最初の頃は手のひらだけでなく、足の裏にも水ぶくれができますが、足の裏もあんな感じです。素振りもしていないし、あじさいも切っていないのに。こんな時期にうつるはずのない手足口病がうつってしまったせいで。

なめてかかってはいけません、とこの間の日記に書いたけれど、そんなことを書いている時点でなめている証拠です。でも、たとえなめていなくても、かかってしまった手足口病の進行を防ぐことはできなかったと思います。だから何より予防が大事大事です。

 
この間から時々日記にも「大事大事」と書いていますが、これも息子がよく言うのです。ペンとかノートとかほったらかしにしているので、「いらんのやったら、これパパにちょうだい」と言うと、「だめですよー。大事大事なペンとノートです」とか。前にももらってきた電車の時刻表をまたもらってきて、そういうのがいくつもあるから古くてぼろぼろになったものはもう捨てるよ、と言うと、「だめですよー。大事大事な電車のやつ」とか。

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2017年11月29日 (水)

翻訳 the night away.

頼まれもしない翻訳を夜な夜な、いつか必ず誰かに読んでもらう気満々で、いやー、これは面白いなー、と時々微笑んだりしながら、いつの間にか空が白み始めるまで、ああでもないこうでもない、それもちがうこれもちがう、いやー、そういうことじゃない、とか思いながら、翻訳を始めた頃の気持ちの昂(たか)ぶりを何年かぶりに取り戻し、にやにやと噛みしめています。

思ったようになどいかない日々にこそ満ちるエネルギーを掘り起こして、その全てを十本の指先に込めて、キーボードをぶっ叩いています。土手っ腹の底で逆巻くフィーリングを解放しつつ、でもそれは表われる翻訳の最下層に押し留め、冷静を装います。朝が来るまで翻訳をして、それで冷静を装ったところで隠しきれるはずのない情熱がぼくの翻訳の基礎です。

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2017年11月28日 (火)

11 & counting.

11回目の結婚記念日でした。この11年間で、それまで自分に足りなかった分だけましな人間になって、弱かった分だけ強くなって、笑ってみせる余裕ができた気がします。

タルトが食べたいと言うので一緒に行ったのですが、あいにく定休日だったので別のお店でショートケーキを二つと息子にシュークリームを買って帰りました。

張り切って自分の道だと信じる方に邁進(しようと)していた頃には見つけられなかった幸せを運んできてくれて、そうなると道の向こうの光がさらに輝きを増して見えるようになりました。

12年目も笑顔です。

 
そういえば、11年のうち、芦屋と松江でちょうど半分ずつになります。

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