2017年10月22日 (日)

翻訳講座(土曜クラス)10.

昨日は「はじめての文芸翻訳講座」(土曜クラス)の第十回の日でした。

翻訳する際に、原文をしっかり読みこむことで人物のイメージがくっきりと浮かび上がり、セリフなどもこちらで意識して決めるまでもなくしゃべり出し、どうしてそういうしゃべり方になったか、どうしてそういう関係性になったか、といったことは後で確認してなるほどと思いながら、微調整したり、その必要すらなかったりします。

でもそうしているうちに、そんなつもりだったわけではないのですが、「モデル」が存在していたことに気づくこともあります。今やっているスタインベックの「breakfast」にはテントを張って綿摘み作業に従事する a young man と an older man が登場します。

おそらく親子だとは思うのですが、二人の年の差には触れられていなくて、兄弟という可能性を棄てる確実な理由は見当たりません。 a young man と比べての an older man なので、老人とは限りません。文脈や立ち昇ってくる雰囲気から、どう読むのが自然か、ということが判断基準になるのだと思います。

表情や仕草の似たその二人が、一緒に暮らす少女のような若い女性(おそらく若いほうの男の妻)と一緒に、通りかかった旅人をさりげなく、そして温かく迎え、もてなす話なのですが、昨日はこの二人の男のイメージが、映画「スティング」の二人と少し重なるという意見がありました(男前のポール・ニューマンと男前のロバート・レッドフォードのことです)。息の合ったコンビという点と、二人ともマイペースという点かなと思います。

「モデル」が思い浮かぶ時は、その人物のどこを意識しているかによります。そこをどれほど重要視していいかによって、翻訳におけるそのモデルの活用度も変わってきますが、少なくとも思いついてしまった時点で、そのモデルの存在は翻訳に影響してくるはずです。細心の注意が必要ですが、翻訳の興味深いところだと思います。

以前、アグネス・ブラウンはベネロペ・クルス、マリオン・モンクはドリー・パートンだというとても嬉しいご意見をいただいたことがあります。

翻訳に限らず、読書はそうやって広がっていくのだと思います。留まらない魅力です。

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2017年10月21日 (土)

「浜田真理子コンサート Town Girl Blue」

今日は島根県民会館で行なわれた浜田真理子さんのコンサート「Town Girl Blue」に行ってきました。最初から最後まで最高でした。最新アルバム『Town Girl Blue』でも一曲目に収録されている「彼方へ」で幕を開けました。本当に素敵な曲です。秘めた想いが微動だにしないほど力強く、頼もしく、それでいて健気で、愛おしく、大好きです。

ステージのライティングは明るくはないのですが、浜田さんの笑顔伸びやかな歌声が印象的で、深い海の底から、もしくは深い静寂の中から聴こえてくる一筋の希望、といった感じがしました。それはコンサートが当日だけで成立するものではなく、打ち合わせ等も含めた準備期間を経て辿り着くもので、緊張感と対になった解放感の表われなのかなあと思いながら聴いていたのですが、演出としてのステージの暗さがかえって浜田さんの伸びやかで朗らかな魅力を強調していたようにも感じました。

1stアルバム『mariko』に収録されている「のこされし者のうた」をライブで聴けたのも嬉しかったです。これは一時期、ずーっと繰り返し聴いていたことがあって、曲そのものを一個の塊りとして受け取っていたつもりなのですが、今日演奏された「のこされし者のうた」は、少し違って聴こえました。「わたしをおいてゆかないで」と歌っていた時期を経た軽やかさのような気がしました。作品は留まらないということかなと思います。

序盤で「You Don't Know Me」が歌われ、「わたしの心を知るあなた」と歌う「Mate」が最後に歌われたのも印象的でした。前半は暗いところから届けられる一筋の希望だと思っていたのですが、届けられるまでもなく、ここにある希望、ここが楽しい場所、自分が今いるところ、なんだと思えてきました。

大勢の観客を前にして、やっぱり浜田さんはステージの上の人だと思ったのですが、それを実現するための調整や準備を、浜田さんはご自分でされているのです。そういうところも、浜田さんの音楽の魅力につながっているのだと思います。

服部正美さんのドラムはいろんなスティックのいろんな場所を使って音を自在に出して、とても繊細でした。加瀬達さんのコントラバスはバンドサウンドのベースとうねりをどっしりと作っていました。啼鵬さんのバンドネオンはポップでカラフルでした。

アルバム『Town Girl Blue』が一旦解体され、古い曲やカバー曲などと一緒にコンサートとして再構築され、それでもやっぱり「Town Girl Blue」の世界が繰り広げられたのは、プロデューサーの久保田真琴さんの存在によるのかなあとか、分からないなりにたくさんの刺激をもらえた素敵な夜でした。「Town Girl Blue」を聴きながら歩いて帰ったのですが、長いトンネルを抜けると雨が降っていました。雨のように、しっとりと、雨が降っていました。

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2017年10月20日 (金)

「モールバンヒルズ」

カズオ・イシグロさんの『夜想曲集』の第三話「モールバンヒルズ」を読みました。これも面白かったです。章分けされているわけではないのですが、一行分空いたところが何箇所かあって、そこで一旦本を置いて、頭の中のイメージの中でぼくもぶらぶら時間を過ごすというか、少し余韻を楽しんで、それからまた本を取って読み進める、という読み方に自然になっていました。物語の中での時間の流れがとても心地よくて、そうなったのだと思います。

モールバンヒルズというのは、イングランドのウスターシャ地方に広がる丘陵地帯で、ここでカフェを営む姉夫婦のところに、ロンドンでシンガーソングライターを目指す弟が、環境を変えようとひと夏を過ごすためにやって来るのです。

カフェの手伝いを適当にこなしながら、のんびりとした風景の中で癒されながら作曲に勤(いそ)しんだり、突然現れた学生時代の嫌な先生に相変わらず気分を害されたり、そんなことをしながらも自分の目指す高みに絶対に辿り着くんだという、若さゆえの特権をぎゅっと握りしめています。

そしてカフェの客としてやって来た音楽家夫婦と出会ったことで、弟(そういえばたぶん名前は出てきませんでした)は音楽家として生きていくことへの憧れを強め、自信も少しつけ、一方で音楽性の違いから少しぎくしゃくとした感じになっていた音楽家夫婦も、情熱的な若者の音楽に触れることで、おそらく何かしら感じるところがあったようです。

若者はこれから音楽家として生きていくことになるのかならないのか、全盛期を過ぎた音楽家夫婦の関係はこれからどうなっていくのか、これまでどんな人生を歩んできたのか、登場する人物が巡り合うタイミングや、小説に描かれる時期が絶妙だと思います。それぞれの過去にも未来にも、そして現在にも、読みながら思いを馳せることになります。

一昨日から三篇読んできて、カズオ・イシグロさんの書く人物は、みんな信念を持ちながら控えめで、しっかりとした芯があって、思いやりがあって、そして何かに関して悶々としていて、そういう佇まいも含めてとても魅力的です。

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2017年10月19日 (木)

「降っても晴れても」

カズオ・イシグロさんの『夜想曲集』の第二話「降っても晴れても」を読みました。とてもよかったです。浜田真理子さんの『Town Girl Blue』がかかっている部屋で読んだのですが、それもとてもよかったです。

大学時代から仲の良かったレイモンドとチャーリーとエミリが、四十歳台の後半にさしかかり、それぞれの境遇が大きく異なっているのですが、語学教師として居所の落ち着かないレイモンドが、エミリと結婚してロンドンで暮らすチャーリーのところにやって来ます。

レイモンドはロンドンで用事があり、チャーリーも最近のエミリとのぎくしゃくした関係を再構築するには旧友のレイモンドに来てもらうのが一番だと考えていて、現実的なタイミングとしては申し分がないのですが、それでもおそらくあまりに久しぶりで、あまりに三人を取り巻く環境が違うせいで、物事がギャグのように、もう笑ってしまうしかないぐらい、思ったとおりに展開しません。

そしてもちろんそこで音楽が大事な役割を果たすのですが、読みながら音楽が頭の中で鳴っているから、ゆったりとした、レイモンドやエミリの身辺はばたばたと慌ただしくても落ち着いた、近くにいるのに遠くに感じるような、遠くにいても近く感じるような、距離は関係なくいつも一緒にいるような、いたような、少し不思議にも感じられる温かさと懐かしさが、ゆるやかなリズムに合わせて胸の奥のほうからやって来るのを感じました。

とてもよかったです。全然派手なところがなくて、ウェットな感じもなく、だけど感情の起伏は静かに激しく、それなのにいろんなことが思ったようにはいかなくて、愛おしくなってきます。

家には妻が読んだ『日の名残り』と『わたしたちが孤児だったころ』と『わたしを離さないで』があるのですが、ぼくはカズオ・イシグロさんの作品を読むのはこの『夜想曲集』が初めてです。とてもいいです。

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2017年10月18日 (水)

「老歌手」

カズオ・イシグロの短編集『夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』に収録されている「老歌手」を読みました。

ベネチアの広場で演奏する複数のバンドで助っ人としてギターを弾くハンガリー出身のヤンが、母親が大好きだったアメリカの往年の大歌手トニー・ガードナーの姿を演奏中に見かけます。演奏が終わると、ヤンはトニーが座るテーブルに近づいていって、母がトニーの大ファンだったこと、自分もミュージシャンの端くれだということなどを興奮気味に、それでいて失礼のないように話しかけます。一通り話を聞いたトニーは、ヤンにある計画への協力を持ちかけます。ホテルの部屋で休む妻のリンディに向けて、ゴンドラから歌を捧げたいのでその伴奏を頼むというのです。

時代が変わってかつての勢いを失った老歌手の寂しさを感じさせながらも、後輩ミュージシャンからの敬愛に対しては貫録と敬意を見せるのですが、それだけでなく悲しみを漂わせているのは、妻との間に避けがたいすれ違いを抱えているからでした。ゴンドラから妻に歌を捧げようとするのは、そのすれ違いに対するトニーの最後の優しさなのです。

ヤンとトニー(そしてリンディ)のように、共産主義国で育った者と資本主義国に暮らす者が出会った時には、その背景や事情の違いがあまりに大きく、お互いに相容れないものを壁として痛感せざるを得ないということかもしれません。背景や事情の違いは、もちろん誰もが抱えていることです。それでもなお/だからこそ、音楽の力を信じ、しがみつこうとすることで踏みとどまり、乗り越えることができたらいいと、読みながら願いや祈りにも似た気持ちになっていました。

夕暮れ時の寂しさと優しさだけでない、日が暮れて夜が更けた後には必ずまた朝を迎えないといけないという厳しさを知る者の強(つよ)さと強(したた)かさ、必ずしも力強くはない強さと健気ささえも感じさせる強かさが印象的でした。

カズオ・イシグロさんは、『名探偵モンク』に登場するクローガー先生に似ていると思います。

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2017年10月17日 (火)

懐かしい匂い。

昨夜、洗面所に入ると、初めて松江のこの家に来た頃の匂いがしました。あれからいろんなことがあって、ぼくたちがここに住むことになって、家の中の様子がすっかり変わり、ぼくもここに住んでいることに慣れてきて、どこの家にもおそらくあるその家独特の匂いというものにいつの間にか気がつかなくなって、ばたばたしているようなすっかり落ち着いたような落ち着いてしまったような暮らしが日常になっていましたが、あの頃の懐かしい匂いが、昨夜ふと、洗面所に入った時に鼻先をかすめていったのです。

あ、と思いながらそのままお風呂に入って、途中から息子も入ってきて、きゃっきゃきゃっきゃ言いながらシャボン玉とかして、息子の様子を見に来た妻に、さっき洗面所で懐かしい匂いがしたと話すと、牛乳石鹸だということでした。詰め替え用のハンドソープを切らしていたので、代わりに牛乳石鹸を置いていたのです。牛乳石鹸はお義父さんが使っていました。

責任感と正義感の塊りみたいなお義父さんの匂いは、優しい牛乳石鹸の匂いだったのです。匂いがきっかけで思い出す思い出はセンチメンタルです。思い出は思い出すたびに細やかになっていくというのはどうやら本当みたいです。もうすぐ五年が経ちます。

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2017年10月16日 (月)

言葉。

中学生の頃、聖飢魔II以上に熱心に聴いていたのが尾崎豊でした。深夜に放送されていた「早すぎる伝説」というライブ番組を録画して何度も何度も観ました。中学生の頃に熱中した音楽は、ずっと残っているものなのだと思います。もう何十年も聴いていないのに、ふっと口ずさんでいたりします。

「どれだけ言葉費やし、君に話したろう」(「傷つけた人々へ」)という歌詞とか、今でも噛みしめることがあります。誰もの全ての言動は、誰かに何かを理解してほしいからだと思います。ぼくがこの日記を毎晩せっせと書いているのも、内容だけでなく(もしくは内容ではなく)、自分のことを分かってもらいたいという欲求があるからだと思います。なのに、自分の言葉の何が伝わっていて、何が足りなくて、何がどこにも辿り着けていなくて、何が誤解を招いていて、何が誰かを傷つけているのか、何も分かっていないように思えて怖くなることがあります。

本を読んでいても、ぼくは同じ本を読んだ他の人とまったく異なる解釈をしていることが少なくないし、ということは自分で気がついていないだけで今でも勘違いしたままのこともきっと少なくないはずだし、それをすべてに当てはめるつもりはないけれど、逆の立場で言えば、誤解されていることもないわけじゃないと基本的に思っているところがあります。それにそもそも、何をするにしても、ぼくは間違っているかもしれない、ぼくが間違っているかもしれない、ということが大前提、出発点になっています。だからずい分と無口だった時期もあります。

でももしかしたら、そういう自分の中に見つけしまっている失望を糧に、憂いを希望に変えることで、あまり否定的になったり喧嘩腰になったりせずに済んでいるのかもしれないと思うことはあります。

言葉についてもっと深く考えたいと、最近はますます思うようになりました。

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2017年10月15日 (日)

『スモーク』

ウェイン・ワン監督、ハーヴェイ・カイテルとウィリアム・ハート主演の映画『スモーク』(1995)を観ました。

ブルックリンの街角でハーヴェイ・カイテル演じるオーギー・レンが営むタバコ屋に、ウィリアム・ハート演じる作家のポール・ベンジャミンら常連客が集い、そこで繰り広げられる会話や語られるエピソード、迷い込むさまざまな人物らとの関わりで物語は展開します。

ラシードと名乗る黒人の少年とポール・ベンジャミンの出会い、ラシードが隠し持っていた大金の行方、オーギーの店でラシードがやらかした失敗、かつてオーギーを裏切ったガールフレンドの登場、ラシードの父親の存在など、どのエピソードも覚えていましたが、すっかり忘れていました。

誰もが余裕のない中、それでも隣り合う人たちの背中をぽんぽんと叩きながらそれぞれの生活を暮らしているような温もりがありました。日々を生きていくことは簡単なことではないけれど、それが物語の後半までずっと押しつけがましくなく描かれているからこそ、最後にクリスマスの物語を語るオーギーの表情も、それを聞くポールの表情も、じんわりと涙を誘うのだと思います。

最後にトム・ウェイツの「Innocent When You Dream」が流れてくることも、直前になって思い出しました。「Innocent~」が流れ、それまでオーギーがポールに話していたクリスマスの物語がセリフなしの回想シーンとして演じられます。そこで初めて登場するおばあちゃんの表情も、とてもいいです。ぐっときます。

いいなあ、いい映画だったなあ、と思っていると、エンドロールに切り替わって、軽快な「Smoke Gets In Your Eyes」がかかってくるのですが、だいぶ戸惑いました。さっきのトム・ウェイツと回想シーンで終わってくれたら余韻を楽しめたのに、と思ったのですが、そこまで含めて本編だいう意思表示かなと考え直しました。それに、これを映画館で観ていたとしてら、この「Smoke Gets~」が流れる中、みんなが立ち上がってぞろぞろと出口に向かっている場面が容易に想像できます。もちろんぼくはエンドロールも最後まで観るので、騒がしくなってからもじっと座っています。

一つびっくりしたのは、最後にオーギーが話すクリスマス・ストーリーは、ほぼ原作どおりだったことです。原作はポール・オースターの「Auggie Wren's Christmas Story」で、オーギーとポールのエピソードのみが扱われているのですが、原作に書かれている表現が映画の脚本でもほぼそのままオーギーのセリフになっていました。映画の脚本も原作者のポール・オースターが務めたからだと思いますが、映画も小説も印象に揺らぎがないように感じました。「SMOKE」は、「Auggie Wren's Christmas Story」のロング・バージョンといった感じでした。

12月にブルーレイが出るみたいです。

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2017年10月14日 (土)

「ヒトラーの遺産」

もちろん今日もルパンを観ました。今日は、東西に分断されていた頃(『ルパン三世』放映当時)のドイツを舞台にした「ヒトラーの遺産」でした。

ヒトラーがどこかに隠したはずの莫大な遺産の所在を知る唯一の人物、総統の秘密補佐官だったクロイツェン・ゲンハルトを、ルパンたちは大胆にも東ドイツから連れ出します。ベルリンの壁を越えて。しかも悠々と。「壁なんてのは、越えるためにあるんだよ」という名言がさらりと飛び出します。

そしてすでに老いたクロイツェンは当時の記憶を失くしていて、聞き出すのは容易ではなく、ルパンは一計を案じるのですが、それにまたもや銭型警部が気づきます。舞台がドイツならではの展開がちゃんとあって、次元や五右ェ門も活躍すべきタイミングできっちり活躍し、ホッとしかけたところで銭型が登場するので簡単には終わらず、とても30分とは思えないほど濃密です。手に汗を握ります。よし、あとちょっとだ、となって緊張感が最高潮に達したところで、てれっ、てれ、てれっ、てれ、てれっ、てれ、ルパンザサード……、と始まってくる音楽もさらに雰囲気を盛り上げます。第2シリーズでは最後にドジなオチがついていて、それも特徴です。

ぼくはどうしても次元や銭型警部に魅力を感じてしまうのですが、「壁なんてのは、越えるためにあるんだよ」と嘯くでもなくさらりと言い放ち、そのとおりに実行してしまうルパンには憧れを抱きます。明日は「ネッシーの唄が聞こえる」です。また会おうぜ。

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2017年10月13日 (金)

「リオの夕陽に咲く札束」

さっそくルパンが面白いです。この第2シーズンは子供の頃にずっと見ていたし、芦屋にいた頃にもケーブルテレビでやっていたのを真面目に、脚本家にも注目しながら見ていたのでほとんどのエピソードを覚えているはずですが、それでも見ていて楽しいです。

今日の「リオの夕陽に咲く札束」は、綿密に寝られた計画が実行に移され、それに銭形警部が気づき、追い詰めていく様子にハラハラしました。舞台はブラジルのマラカナン・サッカースタジアムで、ペレも出てくるし、コルコバードのキリスト像やコパカバーナビーチも出てきます。

地元の名門チーム(ヨントス!)と、ペレもメンバー入りしているアメリカチームが激突するのですが、サッカーの試合中に計画を実行し、しかもペレまで登場するなんて、まるで『勝利への脱出』ですが、ルパンたちはあっさりと脱獄し、そのうえでサッカーの試合の入場料やサッカーくじの売上金など27億円の強奪を企んでいるのです。

第1話に引き続き、ルパンのアイデア、銭型警部の執念が見事です。どのキャラクターも個性的でそれぞれに魅力的なのですが、その組み合わせで魅力が何倍にも感じられます。野球などもそうですが、それぞれ果たすべき役割があるということだと思います。何人かが集まって何かをする時の基本です。

明日は「ヒトラーの遺産」です。また会おうぜ。

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2017年10月12日 (木)

「ルパン三世颯爽登場」

今日はお昼過ぎになんとなく中途半端に時間が空いて、どうしようか、この貴重な時間を、本でも読もうか、でも一冊読み切るほどの時間はないし、次の翻訳講座の予習をしようか、でも昨日したばかりだし、ファイナライズしないままデッキが壊れてしまったDVDの救出の仕方を調べようか、でもそれも時間がかかりそうだし、散歩にでも出かけようか、あ、でも雨か、じゃあ寝るか、でも寝たらたぶん夜まで起きれんな、とか思っている間ずっと、「ルパン三世」を観る気満々でした。

久しぶりに個人的「ルパン三世」ブームがやって来ています(好きなのは「第1シリーズ」なのですが、今回は「第2シリーズ」を観ます)。一日のどこかでルパンを観る時間と、ピーナッツを読む時間を取るなんて、まるで無邪気な子供です。

第1話の「ルパン三世颯爽登場」では、第1シリーズの第1話にも登場したスコーピオンズのミスターXが、超人間となって復讐を企みます。次元のマグナムも五右ェ門の斬鉄剣も通用しないのですが、ルパンの頭脳の前にあっけなくやられてしまいます。

第1話は、第1シリーズが終わって5年ぶりに銭形警部も含めたメンバーが再会するということで、メンバー紹介を兼ねたイントロダクションとしての位置づけだと思います。車が出てくるシーンは相変わらずカッコいいです。もちろんオープニングとエンディングの曲も。

30分ですっかり気分転換できます。ルパンとピーナッツをうまく取り入れて、(季節のせいなのか何なのか、)日々短くなりつつある一日を存分に使い切りたいと思います。明日は「リオの夕陽に咲く札束」です。また会おうぜ。

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2017年10月11日 (水)

息子の友達。

息子がいつもいく公園でいつも会う男の子がいて、仲良くなりました。とても優しい子で、五年生なので息子より五つ上なのですが、カッコいい自転車を貸してくれたり、息子の電車の話やほうきの話やペンの話を面倒くさがらずににこにこ聞いてくれたり、いつも遠くからぼくたちを見つけるとにこにこと手を振りながら自転車でぶっ飛ばしてきてくれたり、帰るときにはどちらからともなく手を出してタッチしてからばいばいしたり、息子も大大好きみたいです。

保育園でのことは帰ってきてからいろいろ話してくれるのですが、実際に息子が友達と遊んでいるところを見ることはあんまりないので、公園で五つも上のお兄さんと二人でにこにこしているところを見ていると、こっちまでにこにこしてしまいます。

息子の世界が広がっていくのを目の当たりにしている実感があります。なんて今は余裕ですが、だんだん寂しくなってくるんだろうなあと思うだけで寂しくなってきます。

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2017年10月10日 (火)

翻訳講座(火曜クラス)10.

今日は「はじめての文芸翻訳講座」(火曜クラス)の第十回の日でした。

原文を読んでいて、たくさんの単語を駆使してとても細かいところまで描写されている場面に出会うときがあります。単語の持つ意味の範囲が英語と日本語では違うせいで、丁寧にというか正直にというかつまり下手に翻訳するとくどいように感じたり、散漫になったりしがちですが、でもそこは、佇む人物の視線の先にあるものなのかもしれないし、心から離れない景色なのかもしれません。つまりくどいぐらいそこに留まっている理由があるのです。それをきちんとわかっておかないと、ただ読みやすいだけの薄っぺらい文章になってしまいます。

今日は、通りかかったテントのそばでてきぱきと働く若い女性の様子を細かく眺めて一パラグラフを丸々使って描写した箇所がありました。赤ん坊を抱いてお乳を飲ませながら、ストーブの火を調節したり、そこで調理したり、やることがいっぱいあるのですが、それを軽やかに優雅に行なっているのです。しかも野外という、決して快適ではないはずの環境で。無駄な動きとかないのです。

これを、たとえば「てきぱきと」だなんて一言で片づけてしまっては、この女性がこんなに大変なことを軽やかにできるようになった経緯や事情を無視しているか、少なくとも軽視した表現になってしまいます。

一瞥だけして分かったような気になってはいけないのです。その視線で何を見つめているのかということでもあると思います。ただ見事な動きっぷりを見てそれを読者に伝えているだけなのか、そこに何かしらの想いが生じて、それを慈しむ気持ちを吐露しているのか、共感の有無は別にして、人物の想いを掬い取る必要があります。何を読み取ったかで翻訳も変わってきます。

夜が明けたばかりのこの場面では、テントのそばのストーブから炎がちらちらとこぼれ出て、灰色の景色の中でオレンジ色の煌めきがきれいなのですが、そのきれいなオレンジの儚さと激しさも印象的です。

想いを言葉に込めるということは、可能なんだなと思えます。

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2017年10月 9日 (月)

「ペイパーバック・ライター」

ビートルズの『パスト・マスターズ vol.2』を聴いています。翻訳の持ち込み企画についていろいろ考えていると、「ペイパーバック・ライター」を思い出すのです。

なんとしてでもペイパーバック・ライターになりたいという切実な願いが謙虚に、それでいて熱烈に、そして明快に綴られています。自分がやりたいこと、やろうとしていること、それに対する自分の気持ちをはっきりと自覚しているからこそ、ここまで明快に表現することができるのだと思います。気持ちがいいぐらい、実に明快です。

こんな強く明るく潔く活動を続けていれば、いつかきっと、ペーパーバーック・ラーイター♪ と甲高いコーラスで応えてくれる編集者に出会えるはずです。営業活動は出会うための旅です。

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2017年10月 8日 (日)

十月。

宮沢賢治の「十月の末」では、幼い嘉(か)ッコがお母さんとおばあさんと一緒に家を出て、少し離れたところにある豆畑まで行く場面が描かれています。これが十月の末のことなのだと思うのですが、嘉ッコは土間から外へ飛び出す際に、「赤いげんこを二つ顔の前にそろえて、ふっふっと息をふきかけ」ています。岩手は十月の末でもうそんなに寒いんだなあと思います。

ぼくも松江に来た最初の年に、松江の十月はもはや冬だと思ったものです。十月でこんなに寒いなんて、まだ後に控えている十一月や十二月、一月、二月の寒さに果たして耐えられるのだろうかと、びくびくしていました。それが十月の末だったか中旬だったかいつだったかは定かではありませんが、以来、十月は寒いはずだと覚悟を決めているのに今日は暑いぐらいでした。

「十月の末」でも、かじかんだ手に息をふきかけたくなるほど気温は低くても、嘉ッコらは元気に走り回って体温がぽかぽかと上昇し、軽く汗ばんでいるぐらいの印象を受けます。無理や不摂生をしていない子供の体は強靭なのかもしれません。

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2017年10月 7日 (土)

翻訳講座(土曜クラス)9.

今日は「はじめての文芸翻訳講座」(土曜クラス)の第九回の日でした。

土曜クラスも今日からスタインベックの「breakfast」に入りました。導入部分では、色彩のなさが鮮やかに表現され、寒々しさのなかにじんわりとした温かみが伝わってきます。眺める眼差しに熱がこもっていれば、モノクロームな景色もカラフルに映ります。

じっくりと読めば読むほど味わいが増すのは古い作品だからではなく、じっくりと読めば味わいを感じられる作品だから、古くても今に残っているのかなと思います。一冊の本を何度も読むよりたくさんの本を次から次へと読むほうが(楽だし、)いろいろ楽しめるようについつい思ってしまうのですが、それはきりがないし、もったいないし、なんとなくでもこれは好きだなと思った本は何度でも読むようにしています。

面白い本は、宝物がいっぱい入ったおもちゃ箱みたいです。言葉の使い方とか、物語の展開とか、描かれている場面とか、描かなかった場面とか、登場人物とか、どんな側面を意識しながら読んでも、わくわくするような発見に満ちています。ざっと読んだだけでは見過ごしてしまっていたはずの発見も少なくありません。

だから、宝物の存在に気づく感性みたいなものももちろん必要だと思うのですが、丹念に掘り起こしていく根気も大事です。そういう喜びが読書にはあると思うので、それを翻訳でも再現する難しさや楽しさを、翻訳講座で味わっていただけていればと思います。

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2017年10月 6日 (金)

Walk on.

この日記は、翻訳家としての日々を書いていくつもりで2004年8月2日(月)に始めたのですが、ここ数年は息子にまつわる内容が圧倒的に多くなっています。息子に関する最初の日記は、息子が生まれた日に書いたものでした。

息子と公園に行っただとか、電車に乗っただとか、本を買ってあげただとか、そういう内容がほとんどを占めている現状がいいのか悪いのか、いい面もあればよくない面もあるということは自覚しているのですが、おかげさまで楽しく、温かく、幸せな毎日をご機嫌さんで過ごしています。日記を通じて息子の成長を皆さんに見守っていただいているように感じられることも、とても嬉しく思っています。

でも、もちろん一日中息子と公園で遊んでいるわけではないし、週末だからといって朝から晩まで電車に乗っているわけでもありません。日記には書いていないことも、ぼくの毎日の中には当然含まれています。そんな、最近は日記であまり触れていない時間に、翻訳の企画を作成したり、日々の糧をどうにか得たり、寝たり、ご飯を食べたりしています。そういう時間が何かしらどうにか(できれば思っているような形で)実を結び、日記に堂々と書ける日が来れば、本来ぼくが目指していた翻訳家としての日々を綴った日記に、再びなるはずです。

Walk on.

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2017年10月 5日 (木)

おおきくなったら。

今朝、保育園に行く途中、息子が「おおきくなったらねー、パパみたいになるの」と言いました。「そうなん? ほんまかー」と平静を装った返事の後半は声が上ずって、自分の声じゃないみたいでした。心の中で号泣しました。

たぶん、車を運転するとか、運転席に座るとか、ワイパーを自分の裁量で動かしていいとか、シャケのおにぎりを自由に買えるとか、家に帰る時間や電車に乗る日を好きに決めていいとか、今日の給食が何か知っているとか、要するに自分のしたいことを誰にも制限されずにできるようになりたいということだとは思うのですが、それをまだ言葉足らずの息子が言おうとしたらあんな言い方になるのだとは思うのですが、妻にもそう言われたしそう思おうとしているのですが、たぶん違います。息子は、大きくなったらパパみたいになりたいと言ったのです。

でも今は、あかんでー、としか言えません。心の中で泣きながら、ぽろぽろぽろぽろ泣きながら、ぶわぶわぶわぶわ泣きながら、あかんよー、パパみたいになったらあかんからねとしか言えません。でも、いつまでも息子にそんなふうにしか言えない親でいるわけにはいかないし、そんなふうにしか言えない親でいることは息子やに対してだけでなく自分の両親に対しても申し訳ないし、しっかり踏ん張って、自分の足と意志で歩き続けていかないとと思っています。

息子の目にぼくはどう映っているのだろうかと思います。どう映っていたとしてもです。

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2017年10月 4日 (水)

息子 comes first.

最近は暗くなるのが早くなってきて、保育園の帰りに公園に寄って遊んでいてもすぐに帰らないといけなくなって、息子もぼくもゲットノーサティスファクションです。まだまだ滑り足りないし、ぶらんこもしたいし、ボールも蹴ってよーいどんで追いかけたいのに。

息子と一緒に過ごす時間をめいっぱい楽しむためにも、それ以外の時間をもっとしっかり充実させないとと思っています。

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2017年10月 3日 (火)

11年目の夢。

『夢助』!

あれからもう11年が経つなんて。いろいろ楽しかったあの頃のリリースやライブのニュースも語らいも興奮も未だに色褪せることがまったくないまま、11年経った今も「最新アルバム」として聴いています。

ファンの期待を背負って、振り切って、それでいて何度でも夢を見せてくれて、期待を超えるものを聴かせてくれて、常に迷いなく軽やかに自由で、まさに夢助です。「夢助」だなんて、どこからこんなタイトルを思いついたのかと思います。きっとアンテナがキャッチしたのだと思います。「KING」、「GOD」に続く「夢助」です。このアルバムがリリースされるまでは間違いなく一度も口にしたことのなかった「夢助」という言葉を、今ではこんなに頻繁に口にするようになりました。

何かをしながら音楽を聴き、新しいものが出ればすぐに飛びつき、あれも聴いたこれも聴いた、それも知っている、といった落ち着きのない聴き方をするようになってしまったことを深く深く反省していたぼくの前に、どっぷりと現われたのが清志郎さんでした。

以来、音楽の魅力に取り憑かれて未だに醒めません。自分の人生に勇気を持とうと思います。

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«「いぬのおまわりさん」