2017年1月24日 (火)

長靴にスパイク。

昨日に続いてどかどかと雪が降り、みるみる積もって、玄関を開けると雪の壁が迫ってきているのかと思うぐらいの光景が広がっていて、そんな中、保育園に息子を迎えに行きました。

長靴程度のゴム底では到底太刀打ちできるはずもない今回の大雪にも負けず、ニットキャップをかぶって手袋をしてマフラーをぐるぐる巻いて、足元は長靴だけを頼りに家を出たのですが、つるつる滑ったりざくざく踏み込むと長靴の上から雪が入ってきたり、長靴みたいなもん履いてくるぐらいやったらスノーボードか段ボールでも持って出たほうがよかったわ、と何度も独り言を言いながらご機嫌さんで歩きました。吹雪の中。

あんまりつるつる滑るので、息子がよく歌っている「ラーメン食べたい/ラーメン食べたい/ラーメン食べたい/つるっつるっつるっ♪」という歌が頭の中でどうしようもなくリピートして、おそらく傍目にはだいぶ大変そうに歩いているはずなのに頭の中ではこんなにご陽気な歌を歌っているなんて夢にも思わないだろうなあ、へっへっへー、とか思いながら歩きました。吹雪の中を。

でもさすがに今回の雪は気の持ちようだけでどうこうできるレベルではなかったので、通りかかったホームセンターで靴にはめるスパイク付きのゴムバンドを買って、それを長靴の上から装着して歩くと、なんと走れるぐらい快適でした。で、調子に乗って走っていると、いつの間にか片方のスパイクがなくなっていて、とぼとぼかつ慎重に来た道を引き返し、2ブロックぐらい戻った辺りで半分埋もれかけているところを発見して事なきを得ました。

そんな感じで保育園に到着し、息子と一緒にバスに乗って、途中でママと合流して三人で帰りました。しかし今日の雪はすごいね、と朝も昼も夜も何回でも道で会った知らない人にでも思わず言ってしまうぐらい、昨日と今日の雪はすごかったです。

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2017年1月23日 (月)

かまくら。

今日は起きると外が一面真っ白で、おったまげました。暖かい部屋の中にいて、温かいお茶でも飲みながら窓の外を眺めていられるのならたまにはこういう大雪も風情があっていいのかもしれませんが、一歩外に出るともうえらいことになっていました。山陰の冬に本気を出されたら、ぼくなんかひとたまりもありません。

それでも息子が保育園から帰ってくるまでにと思って、降りやまない雪の中、家の前の庭でそこそこ大きなかまくらを作ったのですが、息子はここまで雪が深いと足がずぼずぼと沈んでしまって怖かったみたいで、いつもなら悪天候でもいつまでも外で遊びたがるのに、今日は妻と一緒にちょっと遊んだ程度で、後は家の中で遊んでいました。見向きもしてもらえなかったかまくらに雪は降り積もり、そのままただの雪山になったはずです。

しかもぼくはと言えば、かまくらみたいなもんを作ったせいで、一日中、山倉(やまくら)を思い出していました。ぼくが小学生の頃に巨人でキャッチャーをしていたプロ野球選手です。当時ぼくは巨人ファンで、篠塚とか松本とか江川とか西本とか、好きなスター選手がいっぱいいる中、地味で堅実で時々試合を決めるヒットを打つ山倉もちょっと好きでした。そして月日が流れて社会人になった頃、引退後の山倉の著書を本屋さんで見つけ、ぱらぱらとめくっていると目次に「本当はピッチャーになりたかった」というような主旨の項目を見つけてびっくりしたことがあります。山倉と言えばキャッチャー、キャッチャーと言えば山倉、ぐらいのイメージを小さい頃からずっと持っていたのですが、そんな単純なものではないんだな、なかったんだなと、ちょっとした感慨すら覚えて、立ち読みするでもなく、目次のページを開いたまましばし立ち尽くしていました。三宮のジュンク堂書店での出来事です。

予報では、明日も今日みたいな大雪になるようです。まじかー。

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2017年1月22日 (日)

『ウィンドアイ』

昨日の朗読ツアーでメインのトピックだったのが、ブライアン・エヴンソンの『ウィンドアイ』です。初めて読む作家だったのですが、カバーデザインにもよく表われているように、収録されている25編のどれもこれもがとてもダークな印象を受ける内容でした。帯に「得体の知れない不安と恐怖が、読者の現実さえも塗り替えていく。」とあるのですが、まさにそんな感じです。

これまで認識していた(つもりの)身の回りの現実が、ふとした瞬間、場合によっては日常的に、とても異質なものに感じられ、でも実はそんなふうに感じているのは自分一人だけで、さらにはそのギャップ、現実と認識とのギャップ、周囲の人たちと自分とのギャップが徐々に大きく口を開け牙を剥きはじめる、といった恐怖を心の奥底で切実に感じてしまう不安に満ちています。

心の奥の後ろのほうをぺろんとめくったあたりに潜んでいたものが、じわりじわりとにじり寄り、滲み出て、それがよく見ていないと分からない程度のスピードで広がってきていることに気づいたときにはもう逃げ場がない夢を見たとしたら、それは『ウィンドアイ』の読後感と似ているかもしれません。

でもそれが実際の日常生活だとしたら、夢や小説と違ってすぐには終わらないのがつらいところです。

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2017年1月21日 (土)

ライブ感覚。

DOOR BOOK STOREで開催された「ブライアン・エヴンソン『ウインドアイ』刊行記念 翻訳家 柴田元幸の朗読ツアー」島根公演に行ってきました。

朗読会というものがどういうものなのか、どういう心づもりでこの日を迎えていいものなのか、見当もつかなかったので、『ウインドアイ』を何度も読んで、そのうちの一篇を自分でも翻訳して、ブライアン・エヴンソンと柴田先生の過去のインタビュー記事を図書館で探して読んで、準備万端で臨みました。

柴田先生の朗読は臨場感に溢れ、言葉に生命が吹きこまれたかのようでした。まさに「朗」読だなあと思いながら聴いていました。

文学における翻訳と朗読の関係は音楽で言えばレコードとライブの関係なのかなあと思っているのですが、そうだとすると、音楽にはライブアルバムという手段があるけれど文学ではどうなのかなとか、翻訳を始めた頃から「ライブ感覚」をどうにか追求してみたいと思っているので、今日はそういう意味でも、大いなるヒントに満ちた刺激的な時間を過ごすことができました。

黙読にしても音読にしても一人で活字を追う読書と、聴衆の前で行なう朗読は、そもそも前提が異なりますが、どちらも言葉のリズムがあって、ということは音楽性があって、活字をきっかけとして、もしくは中心として、そこから活字に限定しないさまざまな要素を付随させながら、活字で構成された物語のテーマやシーンを伝えるという「ドラマ」があるという点では、共通していると思います。その元になっているものは言葉です。

だからぼくは、本のページの中に言葉を閉じ込めてしまうのではなく、言葉にドラマを込めて、そこから立ちのぼってくるイメージを読者の皆さんと共有したいと思っています。そのためのキーワードの一つが、ライブ感覚、もしくはビート、なんじゃないかなという気がしているのです。それがどういうことなのか、まだもう少し摑み切れていないのですが、ちょっとずつ分かってきたような気がします。ふふふ。

それともう一つ、今日は本当に久しぶりにお会いできた方が何人かいて、みんなお世話になっていながらずっとご無沙汰して失礼ばかりしてきた方たちなのに、変わらず温かく接してくれてとても嬉しかったです。外に出て刺激をもらって帰ってきて、それをきちんと形にできるよう、頑張る環境は整っています。

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2017年1月20日 (金)

見栄。

息子は保育園から帰ってくると、真っ先に「パパ、あのねー」と言ってきます。「ん? どしたん?」と訊くと、先生の髪型がいつもと違ったとか、今日は散歩行ったとか、お友達が休んでたとか、今日あった出来事を教えてくれるのですが、時々、「んとね、えっとね……」と言い澱むことがあります。そして待っていると、「今日も保育園行ったね」とか「パパ、かいしゃ行った?」と言ってくる日は、特に教えてくれるようなことがなかったのだと思います。どうということのないこういう会話が毎日とても嬉しくて、息子の口から出てくる言葉を全部手のひらで受け止めて食べてしまいたいぐらいです。

ぼくも小学校ぐらいまでは、学校から帰ると母にいろいろ報告していたことを覚えています。そして、中学に入ってからだと思いますが、あんまりそういうことをしなくなって、母に「前はいろいろ教えてくれてたのに」と言われたことも覚えています。

息子が生まれてからよく思うのですが、本当にぼくは、どうしてあんなに親に対して偉そうな態度を取ることができたのかなと、つくづく反省しています。しかもけっこうな長期にわたって。なんならいまだに。恥ずかしくなってきます。今なら分かるのですが、親はそれを、全部分かったうえで叱ったり黙っていてくれたりしたんだろうなと思います。

でも、学校から帰ってきてその日の出来事を話さなくなったのは、偉そうにするようになったこととはたぶん別です。恥ずかしくなってきたのです。恥ずかしいと思う気持ちって、面倒くさいなあと思います。どこかで何かの役には立っていると思うのですが、ないならないで、そのほうがきちんと伝えられたはずのこととか、今でも伝えられることとか、話せることとか、いろいろあると思うんです。でもやっぱり、恥ずかしいと思う気持ちがいろんな側面で瑞々しさとか豊かさにつながっているような気もします。

気持ちや感情に関しては、見栄ばかり張ってあまり無理をしないほうがいいんだろうなあと思います。息子には素直な子に育ってほしいです。

写真は、保育園から帰ってきてかいしゃする息子です。

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2017年1月19日 (木)

自転車日和。

今日は自転車日和だったので、「Lady Madonna」を口ずさみ、頭のなかで鳴っている音楽を聴きながら、市内をちりんちりんと走ってきました。久しぶりにお会いしたかった人もいたし、だけど会えなかったり、会えたり、さらに思いがけず友達に会ったり、こうして自転車で毎日のように町に出ていた頃のことを思い出したり、2010年に行動指針の一つとして「外出」を付け加えたのですが、今日もさっそく外出の効果を実感しました。

気分転換というと意識を素通りしてしまいそうな言い方になりますが、机に向かっている時間が長くなると、ちょっと外に出るだけで次に机に向かったときに大きな違いがあることが少なくありません。しかも車がたくさん走っている中を自転車で走っていると、同じ町なのに別世界のような、同じ時間なのに異なる次元のような、見渡せばたくさん人がいるのに自分だけが一人のような、不思議な感じがしてきます。そんな中、今日思いがけず会った友達も自転車に乗っていました。

翻訳家になろうと決心して思いつく限りのことを行動に移していた頃、そんなぼくを心配して「何でもバランスが大切だよ」と言ってくれた方がいたのですが、ぼくはバランスも大切だと思うけど、深さを手に入れることができたらその時にはもれなくバランスが取れているんじゃないかなという気がして、深く深くとばかり意識していました。

でも、バランスだとか深さだとか、言葉で遊んでいるうちはどこにも辿り着けず何も手に入れられないと思います。机に向かって頭を悩ましている時間が長くなって、ちょっと外に出てみるとそれだけで気分転換になっていろいろアイデアが出てきて、家に帰って机に向かうとすいすい捗るのであれば、そういうことなのです。自分の経験としてそういうふうに実感できているのであれば、それでいいです。それだけのことです。

そして今日の外出の結果はどうだったのかと言うと、おかげでやる気が漲って明日が待ちきれません。もう今から明日でもいいぐらいです。

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2017年1月18日 (水)

デヴィッド・ボウイ前夜。

ちくま新書の『デヴィッド・ボウイ 変幻するカルト・スター』(野中モモ 著)を読んでいます。第一章「郊外少年の野望」では、ロンドン郊外で生まれたデヴィッド・ロバート・ジョーンズが、音楽と出会い、ロックンロールの洗礼を受け、行動を起こし、高校を出て広告会社に就職し、レコード・デビューを果たし、バンドを解散しては新しいバンドを組み、なんとかしてショービジネスの世界に乗り込んでいこうともがきあがき続ける「デヴィッド・ボウイ前夜」とでも言うべき時期について書かれています。

もちろん、やみくもではなく、センスと戦略があったことが伺えます。でもそれは、今となってはデヴィッド・ボウイのその後を知っているからそう思えるだけのことで、当時、いくら揺るがぬ自信があったとは言え、満を持してリリースしたデビューシングルが芳しい結果を残せなかったり、その後もうまくいかないことが続くと、その後の活動や行動に少しぐらいは焦りがあったんじゃないかと勘ぐってしまいます。

勘ぐりながら読んでいるのですが、第二章からはおそらくデヴィッド・ボウイ前夜をようやく抜け出すのだと思います。何が書かれていて、どう『★』に至るのか、とても楽しみです。

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2017年1月17日 (火)

サンダル。

息子は雨や雪の日でもサンダルを履きたがったり、晴れていても長靴を履きたがったり、パパの靴を履いて散歩に行きたがったり、用途よりもその時々の気分を重視しているようです、なんていうのはすでに大人の発想で、そんなことではなく、自由なんだと思います。大人の発想は知識や経験に基づくけれど、子供はそういう面倒くさいものを獲得するのはこれからなので、自由でいられるのかもしれません。

サンダル、自由、子供、とくると思い出すのはペパーミント・パティです。漫画『Peanuts』に登場する女の子で、勉強は苦手だけれどスポーツが大好きで、スヌーピーのことを「鼻の大きな変わった子」と思っていたり、みんなが「チャーリー・ブラウン」と呼ぶチャーリー・ブラウンのことを一人だけ「チャック」と呼んだり、個性豊かな"the Peanuts gang"のなかでもとりわけ個性的で、自由で、大好きなキャラクターの一人なのですが、このペパーミント・パティが、いつもお父さんに買ってもらったお気に入りのサンダルを履いて登校しているのです。

それなのにある日、突然校長室に呼び出されて、「学校の服装規定に違反するから明日からサンダルは禁止」と告げられるのです。しょんぼりしてクラスに戻ってくると、前の席のフランクリンが「どうしたんだい? 泣いてるじゃないか」と声をかけてくれるのですが、「涙は一粒までなら泣いてることにはならないんだもん」と悲しい気持ちを健気にも我慢しているのです。

パティはよっぽどつらかったらしく、いつもなら反抗してもおかしくないのですが、「規則にけんかを吹っかけても勝ち目はないもんね」と言って翌日は靴を履いてきます。そして、「この靴も素敵なんだけど、やっぱりサンダルが懐かしい」とこぼすのです。そんなパティを見てフランクリンは、「いくら規則でも女の子を泣かすような規則は悪い規則だ」と言うのですが、何回読んでも好きなエピソードです。

ぼくも息子の気分や主張はできるだけ尊重してあげたいと思っているのですが、サンダルにしても何にしても、好きだという気持ちは(一時的なものの場合も大いにあると思いますが)特に大事にしてあげたいと思っています。

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2017年1月16日 (月)

かいしゃする3.

かいしゃする、とか言いながら最近はこんな感じです。

写真には写っていませんが、他にもミニカーがまだたくさんあって、絵本が何冊もあって、この間どこかでもらってきた青い風船があって、保育園で作った段ボール製の羽子板があって、最近お気に入りのぬいぐるみがあって、ぬいぐるみにかけさせるサングラスがあって、ぬいぐるみにおもちゃの聴診器をつけさせてコホコホと咳が出るふりをしながら「せんせー」のところにやって来たり、「かいしゃする」の意味がどんどん広がりを見せ始めています。自由な発想を押さえつけたくない、とか思って隙を見せてしまった結果だと思います。

でも「かいしゃせんの?」と言うと、慌ててぼくのパソコンをがちゃがちゃやったり、もしもしすると言って受話器をとったり、本を出してきてぱらぱらやったり、とてもそれっぽいことをしています。

(たとえ仕事場が子供部屋みたいになってしまおうとも、)家の中が賑やかなのは幸せなことです。

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2017年1月15日 (日)

完結しても続く。

日記を休んでいる間に"The Complete Peanuts"シリーズが完結しました。連載が始まった1950年から惜しまれつつ終了した2000年までの全話を、2004年から12年かけて復刊したものです。2004年に刊行がスタートしたとき、「最終巻を読む頃、ぼくは何歳になっているのだろうと考えると、少し怖い気がします。」という日記を書いています。

"Peanuts"の連載が終了したのは2000年2月13日で、作者のシュルツさんは最後の漫画が掲載された朝刊が届けられる数時間前に亡くなりました。最後の漫画は、シュルツさんから読者のみんなへのお別れの言葉と関係者への謝意で締めくくられています。もちろんチャーリー・ブラウンとスヌーピーが登場して、スヌーピーがその別れの言葉をタイプしながら思い出しているのは、"the Peanuts gang"と呼ばれた仲間たちのことです。みんながシュルツさんの分身だったのだと思います。

ぼくはよく、特に家族はもはや自分だと思うことがあります。自分の家族、ではなく自分です。それがどういうことなのかはどれだけ考えても分からないのですが、いつの頃からかそんな気がするのです。もっと言えば、家族や親族に限らず友達も含めてです。いろんな感情のほとんどが結局はそういうことなんだと感じています。

シュルツさんの最後の言葉の本当に最後は、「彼らのことは決して忘れません」というものです。その下の自署は震えるような筆跡で、どんな想いでサインしたのかなと思います。最期の最後までやり切ったら、それは遺された者に伝わり、受け継がれていくのだと思います。あるいは、引き受け、受け継いでいくのです。大人が登場しない"Peanuts"にはシンプルな言葉とシンプルな表情しか出てきませんが、読んで伝わることや感じることはとても複雑です。とても複雑なことをシンプルに実感させてくれます。

息子を見ていても思うことですが、大事なことは子供の時から知っているはずなのかもしれないし、子供のほうがしっかりと理解しているのかもしれません。

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2017年1月14日 (土)

まるでへっちゃら。

今日は寒かったです。エアコンが気の毒に思えるほどで、家の中にいても冷凍庫の中かと思うぐらい寒く、足首は冷たさで痛く、iPhoneや万年筆はきんきんに冷えていました。

そんな中、息子は相変わらず元気で、外に行きたがり、雪がいっぱい降ってるから今日はダメだよ、と言うと、降りやんだタイミングで「やんだ?」と言って窓の外を確認させたうえで、「外に行くーっ!」と言い張った結果が下の写真です。

なんとか帽子はかぶらせたものの、手袋は最後まで拒否し、ご機嫌さんで家の前の雪かきをしていました。

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2017年1月13日 (金)

finally splinter out.

年末の庭掃除で指に刺さったバラの棘が、今日のお昼前にやっと取れました。ずっと気になっていたんです。棘が刺さっている部分に触れると角度によってはけっこう痛く、そのたびに抜こうとするのですがどうしても抜けず、余計にずきずきと痛くなるばかりだったのです。

向こうがそのつもりならと、こっちは週末ぐらいに「バラの棘ブルース」という題で日記を書いてやろうと思っていたのですが、昨日あたりから角質化していたので、それごとぶっちぎってやったのです。すると黒い点みたいな棘も一緒にぼろりんと取れたのです。

けっこう痛いとかぶっちぎってやったとか言っても、指の先の、よく見ればまあ確かになんか刺さってるんかな、これ、という程度のほんの小さな一点の話です。いやー、しかし、すっきりしました。

"happiness is finally getting the splinter out." by Charles M. Schulz

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2017年1月12日 (木)

No (4曲目以降の)Music, No Life.

昨年末、部屋の模様替えをしていた時に、処分するしかないのかなと思っていたBOSEに電源を入れてみると、なんと治っていました。15年ぐらい前に買ったウェーブレディオCDなのですが、どのCDを聴こうとしても必ず3曲目の途中でからからと空回りするようになってしまっていたのです。

ということはつまり、「Idiot Wind」にも「Memory Motel」にも、「Can't You See Me」にも「Oh! Darling」にも、「Half Moon」にも「Shiver Me Timbers」にも「Dazed And Confused」にも「Venus In Furs」にも「ボスしけてるぜ」にも「世間知らず」にも「ムード21」にも「ボギーボビーの赤いバラ」にも「ためいき小唄」にも辿り着けず、アルバム一枚を通して聴けるのはプリンスの『Lovesexy』だけだったのです。

数年前にもよく似た症状で修理に出したことがあって、今回は二度目だったし、修理代も確か高かったし、『Lovesexy』以外のどのアルバムを聴こうと思っても案の定3曲目の途中で空回りしてしまうことにけっこううんざりしていたので、しょうがないからもう買い替えようかなあしめしめと実は思っていて、そうなるとレコードプレイヤーもあったほうがいいなあ、へへへ、ちょっとアナログに凝ってみるか、ふふふ、なんて実は思っていて、でも夜は隣りの部屋で息子が寝ているのでヘッドフォンもいるな、なんてことまで実はちょっと思っていて、実はちょいちょいネットで調べたり、でもそれはさすがにちょっと調子に乗りすぎだなあ、ということも一応考えたりしていたのですが、どういうわけか年末から順調なのです。今でも3曲目がかかっている間は癖でそわそわしてしまうのですが、どうやら順調なのです。

よかったです。

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2017年1月11日 (水)

かいしゃする2.

息子の「きんむじかん」が長くて困っています。これまでは朝起きて第一声が「でんしゃ乗る?」だったのですが、この間から「かいしゃ行く」に変わりました。朝は慌ただしいので、保育園から帰ってきてからね、ということでなんとか思いとどまらせるのですが、すると夕方になって保育園から帰ってくると、もちろん向かう先は一目散にかいしゃです。晩ご飯までかいしゃです。そして食べ終えると、お風呂の時間までかいしゃです。お風呂を出てからもまだかいしゃに行くと言い張るのですが、言い張りながらもこの時間になると睡魔に対して防戦一方のようで、「また明日かいしゃ行く……」と言いながら寝ています。

今日もかいしゃでパパの本や引き出しの中のものを引っぱり出しては散らかしながら、「これ取っていーい?」「これここに入れていーい?」「これ読むよー」「これはちがうか」「ままん!」と、興奮が収まらないのか常に何かしゃべっていて、なんかこんなふうには思いたくないし、もちろん口にはしないけれど、口にしないとは言っても思った時点でだめだなー、しかしうるさいなー、と思っていたところに「これ読んで―」と言って取り出してきたのが『頼むから静かにしてくれ』で、おかしくてしょうがなくて、息子は最初は不思議そうな顔をしていましたが、一緒になって二人で大笑いしました。その間、ママは下で夕ご飯の支度をしていて、幸せです。

昨日は、「おっきなったらパパとかいしゃする」と言っていました。たぶんですが、こういう時には泣いてもいいのだと思います。

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2017年1月10日 (火)

『ペーパーボーイ』

ヴィンス・ヴォーターの『ペーパーボーイ』(原田勝 訳/岩波書店)を読みました。12歳の少年が主人公で、友達に代わって新聞配達をすることになった一夏の出来事が描かれています。

舞台は1959年のテネシー州メンフィス、つまり公民権法制定前のアメリカ南部です。主人公の家では黒人のメイドさんが住み込みで働いていて、バスや動物園を利用する時は白人と一緒でなければ異なる待遇を強いられていました。

主人公の少年は吃音のために人と話すのが苦手なのですが、新聞配達をして週末には集金もしないといけないので、そうも言っていられません。そこで恥をかいたりかかされたり、大人の世界を垣間見たり、小さな胸に抱えてしまった言葉にできない気持ちを理解してくれる人がいたり、導いてくれるミステリアスで魅力的な人と出会ったり、大切な人の存在に思い至ったり、この夏のことはおそらく一生忘れられないと思います。

人生のうちのいつの段階でもそうだと思いますが、特に成長期にあっては、理解者、わかってくれる人、わかってもらえていると思える人の存在が大きいと思います。大人になればその最たる存在が自分自身のはずですが、そうなるためには自信が必要です。そうでなければ誰かの真似をしたり、誰かの批判を恐れたり、自分で自分の自由を奪ってしまいかねません。自信とは拠り所のことだと思います。その自信を子供のうちにつけてくれるのが、周りの大人でなければならないはずです。

『ペーパーボーイ』にはいろんな人がたくさん登場して主人公と関わりを持つのですが、それぞれの距離感や親密度はもちろん異なります。主人公のほうからぐいと近づこうとする力加減や、相手のほうからの力加減、お互いに受け止める際のスタンスが絶妙で、どんな人とどんなふうに出会って、どんな関係を築くことになったとしても、そこには関わる人の人となりが色濃くも淡くも反映されていて、それが生きて行くことの魅力につながっているんだろうなと思います。

そういえば、この間の「カッコいい言葉」はこの本に出てきたものです。

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2017年1月 9日 (月)

かいしゃする。

今日は、二階の「仕事場」に息子が遊びに来ました。過去に撮った写真を遡ってみると、2歳半だった2年半前以来のようです。当時はパソコンのマウスを電話の受話器に見立てて遊んだり、くるくる回る椅子に座ってきゃっきゃきゃっきゃ言って喜んだり、それはそれは可愛くて、それはとても幸せな光景だったのですが、当時から家の中の本棚という本棚の本を全部引っぱり出して散らかす星からやって来たのかと思うぐらい、本棚という本棚の本を全部引っぱり出して散らかす傾向にあり、そうなると本棚だらけの「仕事場」は収集がつかなくなるため、以来、部屋に鍵をかけるようにしていたのです。

それからも部屋に入って来たがるのですが、手の届かない高いところに取り付けられた鍵を開けることができず、部屋で仕事をしたり本を読んだりしていると「パパ、会社してる?」と言って徐々に諦めるようになって、リビングで一緒に楽しく遊んでいるようなときにたとえばトイレに行こうと思って立ち上がると、「パパ、会社行く?」とか「会社、いや!」とか言いながら慌てて一緒に立ち上がるようになって、いじらしくてたまらず、だけどそんないじらしい息子のためにもやらないといけないことはたくさんあって、そのバランスを崩しっぱなしでここまで来てしまいました。

でもそんなもんぐらい親の意志で保つべきバランスであって、それよりも鍵をかけることで強制的に解決しようとしていることを自分でも最初から心苦しく思っていました。それで今日は、息子が二階に上がってきていることがわかったうえで部屋のドアを開けたままにしていたところ、息子は入り口の手前で立ち止まり、「入っていーい?」と聞いてきたのです。もうその時点で抱きしめてやりたかったのですが、ぐっと堪えて「いいよー」と言うと、きょろきょろしながら入って来て、「前にも来た」と二年半前のことをどうやら覚えているようなのです。そしてもちろん、本棚という本棚から本を全部引っぱり出して散らかし始めました。

教えないといけないことはあると思うのですが、覚えていってもらえたらいいようにも思うし、成長と育児の過程で息子の笑顔が曇るようなことは避けたいと思っています。息子はどんな時でもぼくたちにとって100%の希望でしかありません。

さっき、隣りの部屋で寝ている息子が寝ぼけて起きてきて、寝かしつけに行くと「会社してた? 明日も会社行っていーい?」と言ってそのまま寝てしまいました。どんな夢を見ていたのかなあと思います。

下の写真は、息子が抱っこをせがんでまで高いところの棚から取り出して握りしめて放さなかったパウロ・コエーリョの『ブリーダ』

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2017年1月 8日 (日)

オリジナル。

本を読んでいて、カッコいい言葉に遭遇しました。

「人はみなそれぞれに損失をかかえているものだがここでは帳簿はつけないことになっている」

というものです。「損失をかかえている」少年に向かって、その「損失」を目撃した老人が言った言葉です。そして続けて、収支を示す指標は他にあると言うのです。

まだ読み始めたばかりなのですが、少年の行く末も気になるし、この老人が少年にどんな影響を与えていくのか、いかないのか、どういう展開が待っているのか。ぼくはこういう、周囲や大勢のペースにうまく乗り切れないことに少しの負い目を感じながら、受け止めた自分の本分や事情とともに前を向こうとしている人が好きです。

そしてこの言葉がカッコいいのは、口にした老人のオリジナルな表現だからだと思います。もっと分かりやすい言い方や伝え方は他にいくらでもありそうです。が、こんな表現がすっと口をついて出てくるのは、実際にそういう生き方をしてきた人だからであり、それを自身でも意識しているからに違いありません。それが自信だと思うのです。

伝えるのは言葉でも、伝わるものは言葉だけではありません。

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2017年1月 7日 (土)

ご飯。

ご飯何好きなん? と訊かれたら「ご飯」と答えるぐらいご飯が好きで、おかずとか途中でなくなってもまったく気になりません。カレーの時は、ルーがかかったところを前半でやっつけてしまうぐらいのペース配分で、後半に白いご飯が適度に残っているのが理想です。ゴールのテープを切るまで全力で走り抜くのではなく、30~35km地点に山場を持って来て、後はゴールまで景色を楽しんだり、それまでのレースを振り返りながら走ったり、それとよく似た感覚です。

それで今日も、(今日はカレーではなかったのですが、)ご飯のお代わりをした時にはほとんどおかずが残っていなくて、「なにで食べるん?」と妻に驚かれたのですが、「なにで?って、なにもなくてもご飯があれば食べるだけやで」と、自分でも思いがけずかなりカッコいいセリフを吐いてしまいました。

……と思っていたのですが、日記に書こうと思って思い返してみると大してカッコよくなくて、あれ、どしてかな? と思っているところです。「そこに山があるから」と同じぐらいニヒルな感じがしたのですが、気のせいだったのかもしれません。

下の写真は、ご飯の時間になってもパパの靴を履いて遊びたがるカラフルな息子です。

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2017年1月 6日 (金)

庭掃除。

年末から、もはやジャングルと化していた庭の掃除をしています。「うちのお庭がジャングルで、仔犬のタローがライオンだ♪」という無邪気な歌を幼稚園の時に習いましたが、無邪気と呑気をはき違えるとえらい目に遭います。

全ての植物から伸びた枝やら蔓が絡み合い、なお絡み合い、家の壁に貼りつき、へばりつき、屋根を目指し、どこまで行くつもりなのか電線にまで巻きつき、茂みの中からはエアコンの室外機が出てきたり、腐葉土と同化したような瀬戸物の静けさや朽ち木の黒さは原生林を思わせ、裏の路地では枝と葉っぱのトンネルが陽射しを遮り、これまでは足を踏み入れる勇気もなければその気もなかった庭です。

ぼくの髪を切ってくれている福田さんもこういう感じなのかなあ、なんて思いながら刈込鋏でざっくざっく、高枝切鋏でばっちんばっちん、のこぎりでぎこぎこと、枝という枝を切り落としました。切り口が危ないなあ、と思い始めるとなんでもかんでも危ないように思えてきて、あんなに縦横無尽に枝を伸ばしてぼくたちを近寄らせなかった木々を、もじもじしているようにすら見えるほどちんまりさせ、だいぶすっきりしました。

メジロみたいなかわいい小鳥が付かず離れずぼくたちの周りで跳ねていたのは、いつもの止まり木がなくなってどうしようかと思っていたのかもしれません(と妻が言っていました)。

幹に足をかけて踏ん張って太い枝を切ったり、塀に登って高いところの枝を切ったりするのも大変だったのですが、バラの棘には本当に困らされました。庭中に有刺鉄線が張り巡らされているようなものなのです。色素がなくなるまで枯れてぽきぽきとあっけなく折れる枝についた棘さえも、最後の砦かのように鋭さを失っていないのです。二日目からは軍手を二枚ずつはめてやるようになったのですが、初日は一枚でやっていて、軍手越しにトゲがささって、今も棘が残っているのか血が溜まったのか、指先に黒い点がかすかな痛みとともに残っています。

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2017年1月 5日 (木)

バス。

先日、小銭を作るのをうっかり忘れたままバスに乗ってしまいました。わちゃー……、しもたー……、やってもーたー……、と思っても後の祭りで、十円玉と一円玉が何枚かと一万円札しか入っていない財布を握りしめたままどうしようかなあと思っている間にも目的の停留所は近づいてきて、(というのはもちろん言葉の綾で、バスの方が停留所に近づいていったのですが、それはさておき、)せめて千円のバスカードを買おうと思いつき、「一万円札しかないんですけど、千円のバスカードください」と言うと、「ないの?」と言われました。

そう言ったつもりだったんだけどなあと思いながら「はい」と答えると、軽く舌打ちをされ、結局は売ってもらえたのですが、「困るよ、次に同じように一万円札でバスカード買われるお客さんが来られたらお釣りがなくなるんですよ」と言われました。次の客であればよかったのかーと思った次第です。

でも、まあ、いつものように「ありがとうございました」と言って降りました。息子が大好きでいつも乗りたがるバスを嫌いになりたくないので、「ありがとうございました」と言っておきました。

指の先に刺さったバラの棘と同じで、忘れよう忘れようと思っているうちは忘れられないのかもしれません。まったくどうでもいいことなのに。

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