2017年2月19日 (日)

続・19年目の真実。

先日、エリック・クラプトンの『ピルグリム』のカバーアートに描かれている影が恐竜ではなかった!という衝撃の事実に19年目にして初めて気がついたという日記を書いたところ、妻が、「これも似てる」と言って『へんなおばけ』という息子の絵本を出してきました。

ページの左下に陣取って左右を向いた二匹のワニが、確かに似ています。これやったんか……、と一瞬思いましたが、『へんなおばけ』は2012年の刊行なので違います(『ピルグリム』は1998年)。

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2017年2月18日 (土)

「彼方へ」2.

『Town Girl Blue』三日めの今日も、まだ一曲目の「彼方へ」を聴いています。何度か全曲通して聴いたのですが、「彼方へ」の衝撃が二曲目以降への集中を許してくれず、「彼方へ」ばかり聴いています。

テンポが、この曲を聴いていて想ういろんなことの波長にぴったりなんだと思います。これも一つのグルーヴなのかなと思うぐらい、やさしくフィットして、寝転んだ大地の波動に包まれているような、見上げる空に吸い込まれていきそうな、走っていて何も感じず、全部忘れて風になったように感じるときのような、自分につながるすべての過去と未来の一部になれたような、そんな全体と自分がうまく一つになったような心地よさを感じます。寂しくないわけじゃないけれど、なんかちょっと笑えるようになったときのような。

彼方に向かって歩いていく微笑むひとの優しさと、残されて愛(かな)しむ者との間に通じ合うシンパシーが、それだけでもう切ないのに、「彼方へ」で最後に歌われる祈りのような願いは何度聴いても泣けてきます。海のように大きな愛を感じます。

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2017年2月17日 (金)

「シュリンク」の思い出。

ここ数年はLeeのアメリカンライダース102をはいているのですが、それまでは大学に入った頃からずっとリーバイスの501をはいていました。501は、長くはいて色落ちを楽しむだけでなく、はきこんで洗濯を重ねることでデニム生地が縮んでくるので、自分の足に合うようにフィットしてくるのがとても心地いいのです。

それを、「Shrink to fit」(シュリンク・トゥ・フィット、縮んでフィットする)と言いますが、大学時代の友人の一人で、大学生なのに経済のこととか社会のこととかいろいろ詳しくて、すごいなーと思っていた友達が「シュリンプ・トゥ・フィット」と言ったことがあって、「シュリンプ? シュリンプって、エビ? 海老が?」となって、その友達も口にしてから間違いに気づいたようで、一気に赤面しつつ、一緒にいたもう一人の友達と三人でじわじわとおかしくなってきて、最終的にげらげらと大笑いした思い出があります。

「シュリンク」と言えば、このエピソードをもれなく思い出します。

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2017年2月16日 (木)

「彼方へ」

中学の時、ドイツのロックバンド、ネーナのLP『NENA』を買ったところ、ジャケットにビニールがぴぃーちぃーっ、と張りつくシュリンクパックが施されていて、そんなことは初めてだったのでどうしたものかとひとしきり悩んだ挙句、カッターでそろりそろりと破ろうとしてもちろん失敗したことがあります。

ということを、シュリンクパックされたレコードやCDを開封する時には必ず思い出します。でも、そんなことはどうでもいいです。浜田真理子さんの待望のニューアルバム『Town Girl Blue』です。

一曲目の「彼方へ」は、去年の九月に島根県民会館で行なわれたコンサートで聴いたことがあります。その時も確か一曲目でした。これだけ言葉を削って、音も少ないのに、それでいてこんなにも雄弁に訴えかけてくるのは、浜田さんの真骨頂だと思います。選ばれた言葉の横のつながりと、縦のつながりと、そこから思い出されるいくつかの記憶までの距離感に、イメージの濃淡も加わって、モノクロでありながらこれだけカラフルなのだと思います。

ジャケットに使用されている写真、歌詞カードに印刷されている二葉の写真は、この曲のためなんじゃないかなという気がします。この三葉の写真だけで、映像として伝わってきます。なのでこの曲はもはや映画です。この一曲とその余韻があれば、日が暮れるまで丘の上で風に吹かれていられます。

おそらくぼくの思い込みによる解釈だとは思いますが、じくじくとつらいほど胸に迫ってきて、そっと涙が出るほど優しく感じます。どうしようもないもどかしさと、どうしようもない現実と、そんな無情の人生で、せめて手の届かないほどの彼方が胸の中であればと願います。

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2017年2月15日 (水)

「雁の童子」

宮沢賢治を読んでから寝るのが習慣になっています。昨夜は「雁の童子」を読みました。思い返すたびに、ええ話やなあ、としみじみ思ういい話でした。

楊(やなぎ)に囲まれた小さな泉で昼の食事をしていた旅人が、やはりそこで食事をとろうとやって来た一人の巡礼のおじいさんと会釈を交わす場面から始まります。互いに相手の身の上を慮って、話しかけることはなんとなく遠慮しているのですが、どちらもそのまま別れてしまうのは名残惜しく思っていると、旅人のほうが泉の後ろに小さな祠(ほこら)があることに気づきます。そして、この祠は誰を祀ったものなんだろう、という素朴な疑問をきっかけに、その由来を知る巡礼のおじいさんと会話することになります。

つまり、雁に姿を変えられて空を飛んでいた天の子供が、ある残酷でやむを得ない事情があって人間の夫婦に育てられることになるのですが、その「雁の童子」と夫婦との交流の果てにこの祠が建てられたというのです。話の内容はもちろん、それを話す巡礼のおじいさんと、それを聞く旅人の佇まいがとても穏やかで、優しくて、いいなあ、と思うのです。話が終わって、旅人が巡礼のおじいさんに伝える言葉、別れ際の風景に溶け込んだような二人の自然な立ち居振る舞いがとても印象的です。

同じような雰囲気を、『はじめ人間ギャートルズ』で感じたことがあります。ゴンの父ちゃんが夫婦喧嘩をしたか何かで家を出て、遥かな平野をずーっと遠くまで歩いて行くのです。それこそ、それまで行ったこともないようなずっと遠くの方まで。すると、見渡す限りの平野のその先のやはりずーっと向こうから同じようにとぼとぼと歩いてやって来た男と出会い、「どうだい?」「そうだな、あいかわらずだよ」みたいな挨拶を交わすのです。そして二人とも、来た道を引き返すのです。たしかそれだけのエピソードでした。じんわりと伝わってくる暖かさや愛おしさが似ています。こういう人たちの目には何がどんなふうに映っているのか、覗き込んで見てみたいです。

「雁の童子」では、一日の終わりに水の流れる音が聞こえてきて、雁の童子が「水は夜も流れるのですか」と驚くシーンにはハッとさせられました。「水は夜でも流れるよ。水は夜でも昼でも、平らな所でさえなかったら、いつ迄もいつ迄も流れるのだ」と答えるお父さんもすごいと思いました。当然のようにこういう答え方のできる父親にわたしはなりたい。

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2017年2月14日 (火)

「二十六夜」

『新編 風の又三郎』に収録されている「二十六夜」を読みました。感動しました。ぼくは昔から、大それたことはできなくても、「ちゃんとする」ということを心がけてきたつもりです。ちゃんとする、というのはどういうことかというと、身の程を知って、良心に耳を傾け、真心をもって判断し、行動する、ということです。この物語を読んで、それでよかったんだと思えました。

北上川が流れる地域にある松林を舞台に、そこに暮らす梟(ふくろう)たちが体験する旧暦の六月二十四日から二十六日までの三日間を描いたものです。夜になると、梟のお坊さんが木の枝に止まって(宮沢賢治によるオリジナルの)御経を唱え、説教を行ない、それを聴くために梟たちが集まってくるのです。

御経は読むのも大変でしたが、それを梟のお坊さんが噛んで含めるように説いてくれるので、林の中で梟たちと一緒になって聴いているような気分になりました。それでも小さな梟たちの中には、お坊さんの説教みたいな長話を聴いていられないやんちゃなのも出てきたりして、小学校の時に全校生徒が体育館に集められた集会を思い出しました。全体がしーんとしていたり、ざわついてきたり、落ち着きのない子がいたり、一緒になって遊んでしまったり、真面目な子に注意されたり、でもどういう勘違いがあったのか、騒いでいる子を注意していた真面目な子が先生に怒られるという理不尽があったり、細かいところではそんな逸脱があったりしながらも、何かを伝えるために開かれた集会で話されたことはそこに集まった生徒たちの心に何かしら残っていて、そういうことの繰り返しの中で、参加した生徒の数だけ異なる残り方があったり、それでもある程度まとまったものを全員がその後も共有することになったりします。

人間の世界と同じで、梟の世界にもそういうことがあってもおかしくなくて、もちろん梟以外の生きものの世界にも同じようなことがおそらくあって、間違いなくそれぞれに影響し合っています。梟たちが集まって森の中でさまざまな意見が飛び交っている間も、遠くのほうから汽車の音が聞こえてきたり、瀬の音が聞こえてきたり、他の生活があることが感じられます。多様な生活があって、そこに接点もあって、問題や諍いや諦めや発展が生まれたり育まれたりします。獲って食べたり食べられたりといった根源的な関係だけでなく、たとえば梟であれば何かしらの象徴として「文化的に利用」されたり、それが必ずしも本当の梟の姿を反映していないことも場合によってはあったり、あるいはそういうこととは無関係に、人間以外の生命を生命とも思わぬ人間による軽率な行動で平和が乱されたりすることもあるかもしれません。

梟のお坊さんでさえ、「この世界は全くこの通りじゃ。ただもうみんなかなしいことばかりなのじゃ。」とこぼさずにはいられない世の中なのです。でも、「恨みの心は修羅となる」のです。気持ちが乱れてしまうような時でも、信じられるものとして自分の心をちゃんとしておきたいものです。

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2017年2月13日 (月)

雪かき。

今日は朝起きた時から、首から背中、腰にかけてぎしぎしと強(こわ)ばっていて、ストレッチがいつも以上に気持ちよかったのは昨日の雪かきのせいでした。

先月末の大雪が強烈な印象として残っていたので、今回は凍ってしまわないうちに雪かきをしないとと思って、先日買った新しいスコップと中が起毛になったゴム手袋を持って、家の周囲はもちろん、駐車場の周辺も入念に行ないました。と言っても、自分のところだけというのも気が引けるし、かと言ってやり出したらきりがないし、どうしようかなあと思いながら始めたところ、同じ駐車場内のもう一つの列に車を置いている人が、どんどんどんどん雪かきを進め、駐車場の入口から自分の車のところを過ぎてなお進め、青空の下でスコップの音をサクサクジャリジャリと響かせながら、その列に停めてある全部の車がスムーズに出られるように黙々と、かつ要領よく、しかも爽やかに雪かきを進めていくのです。

そうなるとぼくも自分のところだけやって引き上げるわけにもいかず、自分の列の他の車もそれなりに出やすいように、さっきまでの青空がみるみる黒雲に覆われていく中を、サクサクジャリジャリと続けた結果が今日の筋肉痛というわけです。

一方で爽やかな青年は、駐車場の隣りに住む人に管理会社の人と間違われるほど熱心な雪かきっぷりで、「そうじゃない、ここを借りている者だけど、自分がやらないとここに停めている人たちは前回も雪かきをしていなかったから」と言って雪かきを続け、「そこに停めている人たち」の一人である元気そうな隣人が出てきて手伝うことがなくても、手を休めることなく、車が出せなければ生活に支障が出るだろうけど何らかの事情で雪かきができないのかもしれない人たちのために、雪まじりの雨がぽつぽつと落ちてくる中、せっせと雪をかき続け、見事に仕上げていました。

見ていて惚れ惚れする責任感と丁寧さでした。おかげでぼくも自分勝手な雪かきで終わらせずに済みました。浜乃木で「STEALTH(ステルス)」という車の販売会社を経営されているということでした。要チェックです。

雪かきを二時間も三時間もしていると、その間にできたはずのこととかやろうと思っていたことができないわけだけど、できたはずのこととかやろうと思っていたこととか、それができなかったこととか、自分でも何を言っているのかと思います。原因が何であろうと、できなかったことはできなかったことなのです。それに、雪かきをしないといけないぐらい雪が降ったのであれば雪かきをするのが生活で、ついでに近隣の分も雪かきをするのがそこに暮らすということで、そのためにできなかったことがあるのならまたどこか別に時間を作ってやるなどして、やろうとしていることを継続するのが生きていくということなのだと思います。その過程で感じることとか、出会う人とか、生きていくことの価値は自分なりに見出していけたらと思っています。とか言っていられるのも、ぼくの住んでいる辺りがそんなことを言っていられる程度の雪で済んでいるからであって、そういうことも含めて、今の環境の中のぼくにはどうすることもできない部分に感謝しながら、ぼくにしかどうすることもできない部分に全力を尽くしていきたいと思います。

下の写真は、残念ながら日記の内容には関係がないものの、雪かき(の真似事)をする後姿ですらあまりに愛おしいために掲載したものです。

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2017年2月12日 (日)

「貝の火」

『新編 風の又三郎』(宮沢賢治)に収録されている「貝の火」を読みました(何度目かの再読です)。タイトルになっている「貝の火」というのは宝石の名前です。この宝石を、主人公である兎のホモイが手に入れることから物語が始まります。

川を流されていた瀕死の雲雀の子をホモイが命からがら助けたところ、後日、雲雀の母がやって来て、「私どもの王からの贈物です」と言って「貝の火」をホモイに授けるのです。ホモイは、けっこうです、でもとてもきれいなものだから時々見せてもらいに行きます、なんて控えめなことを言って大した興味を示さないのですが、雲雀の母に押し切られる形で宝石はホモイの手元に残されます。

でもそれはどうやらとても有り難い宝石のようで、ホモイがそれを授かったと知った動物たちが次々とやって来て、おべっかを使うようになります。最初は不思議がっていたホモイがやがて気をよくして、お父さん兎やお母さん兎の心配にも気がつかず、調子に乗ってしまい、ずる賢い狐に騙され、利用され、危うく大変な過ちを犯してしまいそうになります。

それに気がついたお父さん兎がそれこそ命を懸けてホモイを助け出すのです。それまでホモイにすり寄って来ていた連中も去ってしまい、雲雀の子を助けた英雄だと一目置いていた鳥たちも興を冷ましてしまう中、お父さん兎の偉大さ、お母さん兎の優しさが沁みます。自分の子供は何があっても最後まで信じて、守り抜くのが親の役目なんだと思います。

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2017年2月11日 (土)

Paint It White.

昨日の日記を書いていて思い出したのですが、そもそもこのブログ「under the sky, on the road, at the desk.」は、翻訳家としてのぼくが、①毎日日記を書くことで自分の頭や胸のなかにあることを自分の言葉で表現する練習にしたり、②日々の取り組みや活動を紹介したり、③自分なりに月日の積み重ねみたいなものの上に成長や変化と呼べるものがあるならそれが浮き彫りになるような表現手段としたり、あるいは④この日記を読んでくれた方から何かしら質問等があればそれをきっかけとした交流の場としたり、とにかく書いているぼくは翻訳家だということを前提としていたのでした。

それなのに最近は、やれ息子がどうだ、息子はああだ、やれ息子がこうだ、かわいい、ぼくに似ている、やれ息子だ息子だ、なんせ息子だと、気がつけば息子のことばかり書いていました。

うすうすは気がついていたのですが、ちょっと最近は目に余るということで、また翻訳にまつわる日記を増やしていきたいと考えています。そのためには毎日の時間の中で翻訳の比重を増やしていかないといけないのですが、まさに今、その立て直しの真っ最中です。二月いっぱいを踏ん張り切ることができたら、せめてペースと感覚ぐらいは取り戻せるんじゃないかと思っています。そうなったらまた以前のように、翻訳の楽しさをお伝えできる内容の日記が増えてくるはずです。

ところで今日は、風流を解する息子を連れて、妻と三人で雪の一畑電車の旅に行ってきました。街も湖も家々も田畑も、空も山も線路も道路も、手袋もコートも長靴も何もかも真っ白に染めてしまう記録的な大雪の中、どうして運休しないのか、各駅で停車し扉が開くたびに雪が舞い込み、忍び込む冷気に体の芯からぶるぶる震えながら、どこまで行っても白く薄暗い景色をたっぷり楽しんできました。

電車の何がここまで息子を魅了するのか、どういう経緯で用もなく息子を電車に乗せるようになってしまったのか、今更考えても仕方のない、悔やんでも仕方のないことが頭から離れません。でも、楽しそうな息子を見ていると、こういう振り回され方を面倒くさがっていてはいけないんだろうなあと思います。

今は隣りの部屋で気持ちよさそうに眠っています。明日に備えているんだと思います。そしてまた、「朝になったよ! 明るくなったよ!」と言いながら、体中に元気を充満させて、ぼくたちを起こしてくれるのだと思います。

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2017年2月10日 (金)

『なんでもわかるキリスト教大事典』

数日前から、『なんでもわかるキリスト教大事典』(八木谷涼子、朝日文庫)を参照しながら本を読んでいます。この『なんでもわかる~』をいつ買ったのかよく覚えていないのですが、松江に来たばかりの頃に買ったはずで、翻訳の際に実際に活躍してくれたことはまだないのですが、キリスト教に関して(今のところ)本当になんでも分かります。

キリスト教に関しては、勉強して知識として頭に入れる以外、日常生活の中で馴染みのないぼくにとって、この本は読み物として最初からふむふむと読んでいくのも面白いし、翻訳などしていてちょっと調べたいなと思うことがあれば、巻末の「主要索引」と「英和対照表」を見るとたいてい載っているし、文章での説明だけでなくイラストや図解が満載で視覚的にもわかりやすく、いろんな観点から各教派の比較も一覧になっていたり、500ページもない文庫本なのですが、存在感がすごいです。

これまでも特に翻訳する際に、キリスト教についてインターネットで調べたり、図書館の古い資料を閲覧したり、聖書を最初から読み進めようとしては挫折してぱらぱらと眺める癖だけでもつけようとしてみたり、それなりに時間を費やしてきたのですが、この本は買って手元に置いておくだけでなく、実際に読み始め使い始めてみると、「おいおい、なんなよ、こんな本があったんか」とまず最初に呟くことになります。

潔いシンプルなタイトルに込められた自負が、全ページのあちこちからひしひしと伝わってきます。こういう仕事をしないと、と思います。これで今読んでいる本も、ぐいぐいと読み進められそうです。

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2017年2月 9日 (木)

『デヴィッド・ボウイ 変幻するカルト・スター』

野中モモさんの『デヴィッド・ボウイ 変幻するカルト・スター』(ちくま新書)を読みました(第一章「郊外少年の野望」を読んでからずい分と時間が経ってしまいました)。

ぼくは『ジギー・スターダスト』前後と、「ベルリン」三部作、『戦場のメリークリスマス』、『レッツ・ダンス』、そして『ザ・ネクスト・デイ』、『★』ぐらいしか知らないのですが、本書はジギー以前(どころか生誕)から『★』(どころかその三日後)まで、全キャリア(どころか全生涯)を250ページで網羅し、それでいてどの時代にも思い入れたっぷりで読み応えが満載という離れ業をやってのけています。

ぼくはずっと、『北斗の拳』に登場する「風のジュウザ」とデヴィッド・ボウイを無意識のうちに重ねあわせているところがあります。ケンシロウやラオウたちが派手な活躍するメインストリームでの展開とは一定の距離を置いたところ(もしくはまったく無関係のところ)に生きていながら、それでいて各方面に大きな影響と印象を残し、どうにもとらえどころがなく、それでいてどうしようもなく魅力的で、メインストリームとは異なる次元にも同等かそれ以上に光り輝く世界があると思わせてくれる存在という意味でです。

そういうとらえどころのなさに魅力を感じていたのですが、それをこうして年代順に丁寧に追いかけることで、これまで感じていたとらえどころのなさの奥や向こう側にどういう思惑があったのか、どういう懊悩があったのか、といった人間的な魅力が加わって、デヴィッド・ボウイ像に具体的な輪郭ができた気がします。

最終章「仕掛けられたグランドフィナーレ」では、「ラザルス」や『★』の時期が近づくにつれて、読んでいてつらくてつらくて仕方がありませんでした。この本を読んで、デヴィッド・ボウイがいないということが読む前以上に不思議に思えてきました。これまでは異星人のような感覚で見ていた(聴いていた)けれど、この本を読んでぐっと身近に感じられるようになったということかもしれません。

いろんな時期の興味深いエピソードがたくさん紹介されていましたが、その中で「いいなあ」と思ったのは、ボウイがジギー・スターダストとしてミュージック・シーンを席巻した後、ルー・リードの『トランスフォーマー』をプロデュースすることになり、その際に少年時代のサックスの師匠であるロニー・ロスに連絡を取って吹いてくれるように依頼すると、ロニーが「なんてこった、君がジギー・スターダストだったなんて!」と驚いたというエピソードです(p.89)。なんて師匠孝行で爽快で素敵な再会なんだろうと思います。

人生を「総括」した本だからこそ、最後のページを読んで「おしまい」にしてしまわないよう、これからも聴き続けたいと思います。とか言うまでもなく、風のボウイは閉じたページの隙間をすり抜けて、これからもこれまでと変わらず誰かの耳のそばを吹き抜けて、心をそっと撫でたり、正面から心にどすんとぶつかったりしながら、影響と印象を残し続けるのだと思います。

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2017年2月 8日 (水)

『Jazz On A Summer's Day』

『Jazz On A Summer's Day 真夏の夜のジャズ』を観ました。1958年のニューポート・ジャズ・フェスティバルを記録したドキュメンタリー映画です。監督の一人は、「ヴォーグ」誌でマリリン・モンローやオードリー・ヘップバーンなどのポートレートを撮っていたファッション・カメラマンのバート・スターンだそうです。撮影されたのは、54年に始まったニューポート・ジャズ・フェスティバルの五回目にあたる58年なので、音楽フェスティバルのライブ映画としては、ワイト島(70年)よりも、ウッドストック(69年)よりも、モンタレー・ポップ(68年)よりも、よっぽど早いです。

それにしても、どれだけ洒落た映画なのかと思いました。セロニアス・モンクやアニタ・オデイ、ビッグ・メイベル・スミス(すごい迫力!)、チャック・ベリー(!)、ルイ・アームストロング、マヘリア・ジャクソンらの素晴らしいパフォーマンスはもちろん、老若男女みんなそれぞれお洒落なスタイルで自由にフェスティバルを楽しむ観客の表情、途中に挿入される牧歌的な会場の様子、クラシックなオープンタイプの車が走る海岸道路、ちょうどこの日に開催されていたということなのかアメリカス・カップの様子など、この町のこの一日が真空パックされたような映画で、この日ここにいた人たちの脳裏に刻まれたはずの楽しかった一日の景色をお裾分けしてもらったような感じがしました。ブルース・ブラウン監督の『エンドレス・サマー』(1968)の雰囲気にちょっと似ています。

ジャスやゴスペルが会場をヒートアップさせる中、チャック・ベリーがこの年のヒット曲「スウィート・リトル・シックスティーン」を披露し、もちろんダック・ウォークもぶちかますのですが、まったく何の違和感もなく、歓声をかっさらっていました。ライナーノーツには、チャック・ベリーは「この日の"ワイルド・カード"だったが、あまりに"ワイルドな"カードだったため、ダックウォークを始めたのを見た関係者の一人はどうなることかと焦った」というようなことが書かれています。「ワイルド・カード」として呼ばれて、観客の視線を一身に浴びて、拍手喝采を浴びるだなんて、実にロックンロールです。ちなみに「ワイルド・カード」というのは、「特別枠での出場選手、行動の予測がつかない人、決め手となる人、鍵を握る人……」といった意味です。

ルイ・アームストロングの次に出てきて取りを務めるマヘリア・ジャクソンってどんな人なんだろう、と思っていたのですが、圧巻のステージでした。さすがゴスペルの女王です。聴いている人たちの表情もとてもいいし、歌い終わった後は割れんばかりの拍手が鳴り止みません。会場が一つになっていく様子を目の当たりにすることができました。ステージの女王、といった感じです。

ステージで演奏される音楽が周囲の風景や観客の表情にとても馴染んでいて、フェスティバルでなくてもこの町の人たちは変わらず毎日を楽しんでいるのだろうけど、この日はフェスティバルということでやっぱりいつもとは決定的に違うんだろうなと感じました。みんなが必要としている音楽が身近にあった時代の、シンプルかつ実はものすごいフェスティバルを収めた素敵な映画でした。

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2017年2月 7日 (火)

「やまなし」

宮沢賢治の『新編 風の又三郎』に収録されている「やまなし」を読みました。「クラムボンはわらったよ。」でおなじみのやつです。

「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。」という一文で始まって、五月の谷川の底と、十二月の谷川の底を描写する二章で構成されています。五月の章では、青じろい水の底で幼い蟹の兄弟が会話しているところに、光が射してきたり、泡が流れていったり、魚が頭上を過ぎていったり、その魚について弟が兄に質問したり、冷たくて気持ちのいい谷川の底をかわいらしい時間が流れています。と思っていると、そこに「青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲玉のようなもの」が飛び込んできます。さっきまでいたはずの魚がいなくなっていて、兄弟があわあわとなっているところにお父さんの蟹がやって来て、あれはカワセミだ、と教えてくれます。

十二月の章では、七か月分成長した蟹の兄弟のところに、トブン、とやまなしの実が落ちてきて、川の底をいい匂いで満たしながら流れていきます。嬉しいやまなしの登場に、最初はそれと知らない幼い兄弟はかわせみの襲来かと怯えますが、ここでもお父さんの蟹がやって来て、やまなしについて兄弟に教えます。お父さんもきっとやまなしが好きなんだろうなあと思わせられます。

『宮沢賢治の鳥』で取り上げられていたカワセミが登場するのはほんの一瞬です。五月の章で、現われたかと思うとあっという間に去っていったカワセミは兄弟にとってはいったい何だったんだとしか思えなかったはずですが、お父さんの蟹の教えによって、怖ろしい記憶となって十二月の章でも影のように登場します。谷川の底に住む蟹たちと、時々現われるカワセミは、普段は異なる世界に生きているようでいて、でも本当は、そのどちらをも含んだもっと大きな世界が一つの世界なのです。

自然の中で生きるということは、自然の一部として生きるということでもあり、それをどんなふうに意識してもしなくても、もっと大きな意思が働いているのだと、なんとなくですがそんな気がします。

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2017年2月 6日 (月)

バスを待つ。

買い物に出かけた妻と息子がバスで帰ってくるという時に、外は冷たい霰(あられ)が庭先に積もるぐらいどしゃどしゃと降っていて、それなのに傘をお店に忘れてきたというので、お気に入りの黄色い長靴を履いて、妻の傘と息子の傘を持って、もちろん自分も傘をさして、最寄りのバス停まで迎えに行きました。

5分や10分程度の遅れは普段から珍しくないのですが、今日も例にもれずなかなかバスがやって来なくて、車二台がすれ違うのも困難な見通しの悪い細い道のちょっと引っ込んだところで、バラバラと激しく傘にぶつかる霰の音を聞きながら、心無いドライバーにばしゃっと水を撥ねかけられたりしつつ待っているうちに霰が止み、雨も止み、雲間にちょっと晴れ間すら見えてきたところにバスがやって来て、妻と息子が降りてきた時には長靴を履いて三本の傘を持って寒さに震えている自分が滑稽に思えるほど晴れていました。

ぼくのせいではないと思うのですが、こういう間の悪さを自分は持っているなあと時々感じます。芦屋にいた頃も、雷雨の中、傘に雷が落ちないかとびびりながら最寄り駅まで妻を迎えに行って、駅に着いた途端に雨が止み、帰りはぴちぴちちゃぷちゃぷと楽しく帰ってきたことがあります。

写真は、バスを待っている間に、いつの間にか何かの拍子に撮れていたぼくの足元です。

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2017年2月 5日 (日)

電車の旅。

今日は息子を連れて、週末恒例の電車の旅に出かけてきました。電車に乗って行って、そのまま次の電車に乗って折り返してくるだけの電車(に乗るだけ)の旅です。帰りの電車の時刻次第で、ホームで時間をつぶしたり、改札を出て駅の周辺をぶらぶらしたりします。

今日は行きも帰りも一畑電車だったので、出雲大社前駅で帰りの電車を待つ30分ぐらいの間、一般公開されている「デハニ50形」を満喫しました。

息子はあっちからこっちまで走ってみたり、扉という扉を開けようとしてみたり、閉めようとしてみたり、長ーいシートのあっちやこっちに腰かけてみたり、線路の向こうからやって来る電車を見つけて手を振ってみたり、時々「パパもすわる?」と気を遣ってみたり、本当に楽しそうでした。

ぼくは古い木のにおいに、自分の通った本宮小学校の木造校舎を思い出していました。長い廊下の雑巾がけで競争したり、教室の真ん中に置いたストーブの上で給食の牛乳を温めたり、廊下も壁も机も椅子も、みんな木で出来ていました。息子はこれからどんなふうに成長していくのかなとか、世代の巡りに思いを馳せながら、嬉しい気持ちが胸に迫ってくるのを感じていました。

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2017年2月 4日 (土)

『宮沢賢治の鳥』

『宮沢賢治の鳥 Birds Living in Ihatov』(国松俊英 文/舘野鴻 画)を読みました。読んだというより、体験した、もしくは迷い込んだ、といったほうが感覚的には近いかもしれません。

最初のページをめくった瞬間、鳥たちのいるモノクロの風景にハッと息を呑みました。次のページでは、月に照らされた夜の世界の吸い込まれるような奥行きと広がりと凛々しさに魅せられ、その次のページにとまっていたフクロウの愛くるしさとカワセミの美しさからは目が離せなくなりました。

これはすごい画集だ……、と思っていると、宮沢賢治の作品に登場する鳥を紹介した文章もまた素晴らしく、賢治の思考を辿った旅が再現されているようですらあり、賢治に対する愛、登場する鳥たちに対する愛がびしびしと感じられ、とても読み応えがありました。

賢治とハチドリ(蜂雀)の関係を探った文章にはワクワクさせられました。めくったページで飛び交っていた五羽のハチドリはこの世のものとは思えないほどの美しさでした。画としての美しさなのか、生き物としての美しさなのか、本当にため息が出ます。「よだかの星」にまつわるエピソード、もずの秘密、「銀河鉄道の夜」が生まれた経緯もおもしろいです。「烏百態」の景色はすごいです。静謐でありながら迫力があります。

画の中の景色は、ぼくが知らないだけ(今となっては「知らなかった」だけ)で、必ずどこかにある景色(もしくは「あった」景色)なのです。宮沢賢治はぼくも大好きで何度も読んでいますが、ここまでこだわって読んだことはありませんでした。これはもう、明日からでも読み返すしかありません。楽しみがまた一つ増えました。

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2017年2月 3日 (金)

どっちもどっち。

小さい頃に兄と一緒に古座川で撮ってもらった写真を「かいしゃ」に飾っているのですが、息子がそれを見つけて、ちょっと不思議そうな顔をしながら自分かと訊くので、違うよ、小さい時のパパだよ、と言うと、「かわいいね」と言ってくれました。

最初は自分かと思った写真を見てかわいいねだなんて、と思ったのですが、ぼくも息子は小さい頃の自分に似ていると思うし、息子のことはもちろんかわいいと思うので、どっちもどっちです。

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2017年2月 2日 (木)

『ザ・タイマーズ』

やっと『COVERS』を抜け出して、今日からThe Timersの『ザ・タイマーズ』を聴いています。清志郎さんのぶっとい勢いの中の、RCでもソロでもない部分が炸裂しています(もちろん、The Timersと清志郎さんは無関係で、忌野清志郎によく似たZerryが中心メンバーというだけです)。

歌詞やテーマや行動の過激さから社会面で話題になることのほうがもしかしたら多かったのかもしれませんが、4ピースのアコースティックな楽器編成で鳴らすパンクなブルーズ、ファンクなグルーヴ、シンプルなロックンロール、カッコよさが極まっています。

怒りとユーモア、憂いと突貫、ジョークとシリアス、言葉のセンス、リズムとブルーズ、やっぱり清志郎さんは最高です。

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2017年2月 1日 (水)

19年目の真実。

何かの拍子に、エリック・クラプトンの『ピルグリム』(1998)のカバーアートがPCのディスプレイに表示され、ハッとしました。

湖の手前のほうに浮かび上がるように影で描かれた部分を、ぼくはずっと二頭の恐竜だと思っていたのです。静謐な夜の湖で、互いにそっぽを向くように外側に向かって大きく口を開けた二頭の恐竜の頭部が稲妻を浴びているという、理屈っぽく考えれば静と動が表現されたものかなと言えなくもないデザインだとばかり思っていました。1998年のリリース以来、19年間、ずっと、疑いもせず、さっきまで。

そのイメージは子供の頃に見ていたロボットアニメの「大空魔竜ガイキング」を思い出し、クラプトンはこういうところでも日本を好きだと思ってくれているのかな、とすら思っていました。19年間。

それが、今日はディスプレイの右下に小さく表示された画像を視界の隅っこで捉えた瞬間、そうではないことに気づきました。念のため妻にも見てもらったのですが、これはどう見ても目を閉じた男性の目元であって、恐竜などではないことが確認されました。

『ピルグリム』は1998年にアメリカ西海岸を旅した時に唯一持って行っていたCDで、何もないモーテルの一室でベッドに横になりながら、本を読みながら、あるいはグレイハウンドバスの中で夜明けを迎えながら、日が高く昇ったカリフォルニアのビーチで、シアトルの公園で、イヤフォンから流れてくるクラプトンの優しい歌声にずっと耳を傾けていました。恐竜を思い浮かべつつ、日本のアニメが本当に好きなんだなあ、とか思いながら、まるで見当違いなイメージで。

こういうことってあるんだなあ、と思うしかありません。ぼくの場合、他にもこういう例がいっぱいありそうです。

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2017年1月31日 (火)

『COVERS』

今月はRCサクセションの『COVERS』(1988)ばっかり聴いていました。ため息が出るぐらいカッコいいです。「素晴らしすぎて発売できません」とか、このアルバムの持つ悠久不変の破壊力の前では、ぶっちぎられてぴゅーと飛ばされて終わりです。

歌詞もカッコいいし、サウンドもカッコいいし、このアルバムを作るためにジョニー・サンダースや坂本冬美、三浦友和、山口冨士夫……といった多彩なゲスト・ミュージシャンが駆けつけていることもカッコいいです。先人たちの音楽に対する敬愛と自分たちの音楽に対する自信がひしひしと伝わってきます。そして出来上がったアルバムが文句なしにカッコいいだなんて、「可能性」を信じさせてくれます。音楽の可能性。言葉の可能性。信じることの可能性。続けることの可能性……。

一か月間、『COVERS』を聴き続けました。「明日なき世界」で幕を開け、「イマジン」で幕を閉じるのですが、閉じた幕が「明日なき世界」でまた開いて、その繰り返しで一月が過ぎていきました。今日で一月が終わりだという「きりのよさ」がなければ、聴き終えるのがもったいなくて、明日からもまだ『COVERS』を聴いていると思います。

これだけカッコいい音楽を聴かされると居ても立ってもいられなくなります。

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