2017年6月26日 (月)

「Listening To The Wind That Blows」

ビリー・ブラッグとウィルコが制作した『マーメイド・アヴェニュー』というアルバムの三枚目に「Listening To The Wind That Blows」という曲があります。

よく聴くアルバムで、友達が家に遊びに来たら一緒に聴きたいアルバムの一つなのですが、その中でもこの「Listening To The Wind~」は、大大好きな一曲です。このアルバムいいよ、と言って一緒に聴いていたとしても、この曲が一番好きなんだ、とはたぶん言わないと思います。でも、一緒に聴いている友達が「この曲いいね」と言ってくれたら飛び上がって喜んで、「ねー、いいよねー」と何度もしみじみ言うと思います。

眼差しの優しさがものすごいんです。誰もいない夜の浜辺で、あるいは都会の雑踏の中で、孤独を抱えたぼくは、誰にも気づかれずに吹く風の音にひとり耳を傾けていたり、優しく眠るあなたがたとえぼくのところから去っていったとしても、ぼくは失意のままにあなたを愛していますと呟いたり、それがとても簡潔に詩的に表現されているのです。

これを書いたのはウディ・ガスリーです。ウディ・ガスリーが遺した詩に、この曲の場合はウィルコが曲をつけているのです。世代を超えて完成した曲です。見ている風景は同じなのか異なるのか、ロマンチックだなあと思います。そうでなくても、誰かと一緒に何か一つのものを作り上げるということに憧れます。

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2017年6月25日 (日)

真面目。

大学生の頃、『追跡』というリスニング教材を使って英語の勉強をしていた時期があります(原作はシドニー・シェルダン、朗読はオーソン・ウェルズです)。大学の図書館にカセットテープがあったので、それを借りて聴いていたのですが、テキストがそれまであんまり見たことがなかったぐらい縦に長細くて、変わってるなあ、と思ったことが一番印象に残っています。次に印象に残っているのは、主人公の名前「マサオ」はやっぱり「サ」にアクセントが置かれるんだな、ということです。最初は「真っ青」と言ったのかと思ったぐらいです。

当時はシドニー・シェルダンが大流行していて、それでぼくも『追跡』を聴いたり、『真夜中は別の顔』とか『ゲームの達人』といった小説も家にありました。タイトルはすぐに思い出しましたが、内容はまったく思い出せません。一緒に住んでいた兄が持っていただけで、ぼくは読んでいないのかもしれません。それすら思い出せません。だけど『追跡』だけは、縦に長細いテキストとか、「マサオ」の発音とか、マサオが逃走中にハンバーガーを100個注文したこととか、暗い湖の様子とか、けっこう細かいところまで覚えています。そこそこ真面目に取り組んでいたのだと思います。

というようなことを、キース・リチャーズの『Gus & Me』を聴いていて思い出しました。

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2017年6月24日 (土)

DKB revisited.

今日はさっそく山田が鷹丘中学に転校してきました。初日から、弁当の大きさのことで番長の岩鬼くんに目をつけられたり、何としても野球部に勧誘したり長島さんにしつこくつきまとわれたり、廃部寸前の柔道部の事情を一人で背負おうとするわびすけを放っておけずに柔道部に入部することを決意したり、大変そうでした。

でも、岩鬼にしても長島にしてもわびすけにしても、たぎるほどの情熱を持て余していたり一つのものごとに存分に注ぎ込んでいたり、みんなそれぞれ放つ魅力がありました。山田は最初こそその観察者のようでしたが、じわじわと本領を発揮し始めると、出てくる誰をも寄せつけない情熱で周囲の思惑や流れを圧倒していました。

そんな山田を嘲笑いながら手玉に取られる、もしくは手玉に取られながらも嘲笑うことを止めないのが岩鬼です。この豪快さがたまらなく魅力的です。山田の率いる鷹丘中学や明訓高校がこれから破天荒を成し遂げ続けるのは、山田をも恐れぬ岩鬼の存在によるところが大きいはずです。

『ドカベン』に限らず、世の中にはいろんなキャラクターが存在しますが、その誰もかれもの持つ要素を、割合は人それぞれだけど、ぼくたちはみんな少しずつ持っているのだと思います。そこにヒントがあるような気がしています。ぼくが岩鬼に憧れるのには、それだけの理由があるはずなのです。

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2017年6月23日 (金)

思い立った時が本の読み時。

机の下に段ボールを一箱、置きっぱなしのままにしています。『ドカベン』が入っています。先月ぐらいから、読みたいなあ、とずっと思っています。特にきっかけもなく、なんとなく思い出して、そういえば久しぶりだなあ、と思って懐かしい友達に電話するみたいに、久しぶりにドカベンを読みたいなあ、と思っているのです。

あと、50年分の『The Complete Peanuts』も、最後の5年分ぐらいはちゃんと読んでいないし、また最初から読もうと思いながら、これは机の上にどんと並べているのですが、箱に入っていて、一巻がそれなりに大きくて重いので、これもなんとなく後回しになっています。

本は、段ボール箱の中などにしまい込んでしまうべきものではないし、たとえ立派でもあんまり大きかったり重かったりすると、読みたいと思ったときに気軽に読めなかったりするので、やっぱり読みやすさ、手に取りやすさを意識した作り方と片付け方が大事だなあと思います。

と同時に、そんなことを言い訳にして読まずにいると、その程度か、ということにもなるので、何かを試されているみたいで、試されていると思うと異常なまでの反発心を覚えるタイプのぼくとしては、たぶん明日ぐらいからドカベンを読むと思います。その証拠に、さっきまでは段ボールの奥の方にしまい込んであったはずの『ドカベン』の第一巻が、すでにぼくの手元にあります。

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2017年6月22日 (木)

向日葵(ひまわり)。

チャボさんの「向日葵 10.9」を聴いています。向日葵の舟に揺られて、次の夏に居るお前をちょっと覗きに行った、というかなり幻想的で不思議な想像の旅について、さらりと歌いながら、それでいて詩人としてのチャボさん、ロックンローラーとしてのチャボさんの才能を発揮しまくっているちょーカッコいい曲です。ギターもオルガンもドラムもベースも決まっています。

夏の蜃気楼のような幻想を突き抜けて、次の夏を覗きに行って、お前を連れて戻ってくるのです。すると季節はとっくに秋だったけど、幸いにして空は青く澄んでたのです。そんなチャボさんのサマータイム・ブルースです。

どういうきっかけがあればこういう時空を超えた幻想的な世界を思いつき、どれだけの才能があればそれをこれだけクリアに描けるのだろうと思います。惚れ惚れするぐらい完璧な世界です。

リリースされた93年と言えば、古井戸時代の少女のような美しさをとうに経て、ピーク知らずの男前レベルがワイルドに突き抜けている頃です。もちろん、たとえその美しさから若さが失われたとしても、ファンとしてチャボさんとチャボさんの音楽に向ける愛が変わるものではありません。なんつって。いずれにしても、「ひまわり」にはもしかしたらそういう時空という見えない大きな壁を軽々と超える不思議な力があるのかもしれません。もちろん、ないかもしれません。

「向日葵 10.9」は、3rdアルバム『DADA』(1993)に収録されています。先行リリースされたシングルのタイトルは「HIMAWARI」で、2003年リリースのベストアルバム『HARD & Heart』の「HARD編」にも入っています。同じく2003年に出たビデオクリップ集『solo works』では、アルルの町のあちこちでギターを弾きまくる少年のようなチャボさんに出会えます。

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2017年6月21日 (水)

『Gus & Me』

キース・リチャーズが「Gus(ガス)」と呼んでいたおじいさんとの思い出を綴った絵本『Gus & Me』を読みました。

おじいさんと二人でよく散歩に出かけていたキースは、ある日、途中で立ち寄った楽器工房で音楽に魅了され、おじいさんの家に置いてあったギターをもらい、おじいさんに教えてもらいながらギターの練習をし、そして自分がおじいさんとなった今は自分の孫にギターを弾いて聴かせながら、ガスじいさんのことを思い出している、といったストーリーです。

こういう何でもない日常の愛おしい一コマは、多くの人が思い出として持っていると思います。でもこれは、キース・リチャーズが「マジカルな」瞬間として大事に胸にしまっているセンチメンタルな思い出で、それがキースのロマンチックな言葉で綴られているのです。キースは今もステージの上でギターを抱くような仕草をしますが、あれはおじいさんのことを思い出しているのかなと思えます。

さらにこの本には、キース本人による朗読CDがついています。しわがれた声で、思い出を慈しみながら、自分の孫に読んで聞かせながらおじいさんにも届いていたらいいなと思っているんじゃないかなと思うような優しさが伝わってきます。後ろで流れているギターもキースによるもので、演奏している曲は、本編でも大事な役割を果たしている「Malaguena(マラゲーニャ)」です。

キースはもちろん現役のローリングストーンで、2015年には『Crosseyed Heart』というカッコいいにもほどがあるソロアルバムも出しましたが、その原点がこのガスじいさんとの思い出にあるということに、ものすごくしっくりきます。あのしわしわの笑顔がすべてを物語っています。

絵を描いているのはキースの娘のセオドア・リチャーズさんです。味のある絵だと思います。邦訳は奥田民生(!)訳でポプラ社から出ているようです。

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2017年6月20日 (火)

翻訳講座(火曜クラス)3.

今日は翻訳講座(火曜クラス)の第三回がありました。

芦屋で始めた頃から、講座内で全編を翻訳する、と決めています。だから必然的に短編小説(の中でもさらに短いもの)になります。これまで使ったテキストでは、長いものでも全12回で完成しています。例外的に、13章から成る連作短編集の最初の4章だけを使うつもりだったのに、受講生の皆さんが面白いと言ってくださって、結局13章全てを合計29回で全訳したこともありました。

英語で表現されたシーンを日本語で再現するだけでなく、小説としてどういう構成になっているか、ここで使われている単語や表現にはどういう意図や気持ちが込められていると考えられるか、ということを考えながら細部にも全体にも注意を払うには、全編読む必要があります。そこまで精読して初めて翻訳を試みることができると考えています。

だから比較的調べものとか、テキストを超えた知識を必要とせず、テキストに集中できる短編を選んでいます。短編小説は面白さがコンパクトにぎっしりと詰まっています。コンパクトゆえに定かでなく、ぎっしりと詰まっているがゆえに深みに降りていくことができます。

再開した翻訳講座を、楽しんでいただけていればと願うばかりです。翻訳についていろいろ考えたり発言したりできるのは、やっぱり実際に翻訳をしているからです。講座でも、皆さんが宿題を真剣にやって来てくださっているから、思ったことや感触や自信のない箇所などを、自信を持って堂々と発言していただいています。ぼくはもっともっと翻訳をして、さらにたくさんのことを考えて、それらをすべて翻訳に活かして、そして講座に還元したいと思っています。

翻訳 is my home, sweet home where I belong!

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2017年6月19日 (月)

風鈴。

今日は暑かったです。それなのに、再び生い茂ってきた庭の木をざっくざっくと切る作業を朝から始めてしまって、汗だくになりました。汗は、かきたくないと思うと不快でしかないけれど、今はかいてもいいんだ、かくべくしてかいているんだ、と思えたら一気に爽快になります。今朝はだから爽快でした。

一仕事終えた後も、昼間も暑く、夕方になっても暑く、夜になっても気温が下がる様子はなく、明日の翻訳講座の準備をしていても汗でぺりぺりと資料が腕に貼りついて、こういう時はできれば汗をかきたくないと思うので、不快でした。

でも、窓を開けていると時々、ちりん、と風鈴が鳴るのです。それでふっと顔を上げると、風はどうやらもう吹き抜けて行ってしまったようで、風鈴もさっきまでと何も変わらずただぶら下がっているだけなのです。でも控えめに届けられたちりんという軽やかな音がいつまでも耳の奥に残っていて、しばらくはそれで涼しい気分になれるのです。

この古びた風鈴は、兄の勤める銀行で25年近く前にもらって以来、毎年夏になると欠かさず吊っています。吹田でも松戸でも川崎でも練馬でも芦屋でも松江でも、いつでもどんな時でも暑い暑いと文句ばかり言うぼくを優しくちりんと慰め続けてきてくれました。

ぶら下がる短冊には「しあわせ様、ごゆっくりご滞在ください。」とあります。これに関してはこちらの日記に書いています。>>> 「逆境様としあわせ様。」(2013.06.17)

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2017年6月18日 (日)

「文学の宝庫 アイルランド」

最近、いろんなところで、小泉八雲記念館のリニューアル1周年企画展「文学の宝庫 アイルランド」をお知らせするとてもカッコいいポスターを見かけます。パトリック・ラフカディオ・ハーン、ブラム・ストーカー、オスカー・ワイルド、ジョージ・バーナード・ショー、ウィリアム・バトラー・イェイツ、ジェイムズ・ジョイスの六人が並んでいます。

同時代を生きた六人の巨人の、六様の表情、眼差し、雰囲気。これだけですでに訴えかけてくるものがあります。先日も、近所のバス停の前を通りかかった時にこのポスターが貼られていて、まるで美術館に展示されている美術品を眺める時のように、近づいたりちょっと距離を置いたり、少し斜めに立ったり、また戻ってきたりしながら、しばらく目が離せませんでした。

来週の火曜日(6月27日)から来年の6月10日まで、一年(!)の長きに渡って開催予定の企画展なので、比較的いつでも行けるのですが、初日が待ちきれません。

そしてポスターと同じデザインのちらしも市内各所で配布/設置されていますが、裏面には期間中に予定されている関連イベントがたくさん掲載されています。「小泉凡先生のアイルランドトーク」や、夏休みアイリッシュ企画として「『ガリバー旅行記』ポップアップ絵本を作ろう♪」、「ストーリータイム――アイルランドからの贈り物」、ナイトミュージアムの一環としてキョール・アガス・クラックの演奏による「アイリッシュ・ミュージック・セッション」、ウィンター企画として『静かなる男』や『ライアンの娘』の映画上映など、盛りだくさんです。

そんな中、大変おこがましいのですが、ぼくもちょっとお時間をちょうだいして、「アイルランド文学トーク」をさせていただくことになっています。この間、タイトルだけ決めたのですが、「Two Hearts Beat As One. ――個人の中に見るその国の魅力」です。チラシ裏面にもさっそく掲載していただいています。少し先ですが、9月9日(土)14:00-15:30、参加無料、要参加申込です。こっそりと当日を迎えてひっそりと終えたい気持ちがないわけではありませんが、こんな大役を任せていただいてそういうわけにはもちろんいきませんので、皆さん、お友達やご近所の方などお誘いあわせのうえ、どうぞどしどしお申込みください。

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2017年6月17日 (土)

翻訳講座(土曜クラス)2.

今日は翻訳講座(土曜クラス)の第二回がありました。翻訳は、小説の舞台となっている遠くの地にどうしても思いを馳せることになるし、それってとてもロマンチックなことだなあと思います。

小説によって、時代も違えば全然知らない土地での出来事の場合もあり、それを読んでまるで自分もそこにいたかのような気分になって、それを思い返して、楽しかった今日の出来事を日記に書くみたいに、自分の部屋で窓の外の青い空とか黒い夜空とか見ながら再現しているのです。

頭の中や胸の奥に広がる世界は果てしなくて、いつの時代のどこの国の人とも友達になれて、一緒になって走り回ったり悩んだり、そこに読解力や想像力は不可欠ではありますが、それがいつの時代のどこの国の人であっても、共感することができるのです。まるで宇宙か大きな海のようです。

翻訳は究極の精読だと思っています。そして同じぐらいの精読に耐えられるものを日本語で再現することの試みです。原作者と日本の読者の間に広がる宇宙もしくは大きな海をつなぐ役割を果たします。そこに立って感じるのは、色即是空、空即是色と言い切れそうなほどの透明感と躍動感です。

I believe in 翻訳!

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2017年6月16日 (金)

「He's Got All The Whiskey」

ボビー・チャールズの『Bobby Charles』を聴いています。派手さはないのですが、ずっと聴いていたくなります。それで、ずっと聴いています。

5曲目に「He's Got All The Whiskey」というかっちょいい曲があります。この曲を最初に聴いたのは、ボ・ディドリーの『Big Bad Bo』の方だったと思います。オリジナルはボビー・チャールズです。

あいつはウィスキーをたらふく持っている。それなのに俺には全然くれないんだ。あいつは金をしこたま持っている。権力もすべて握っている。それなのに俺にはまったくよこさない。といった内容です。そんな内容の歌詞なのにしみったれた感じはまったくなく、「いらんよ、そんなもん」といって最初から相手にしていないぐらいの印象を受けます。

言葉の選び方なのか音楽なのか、歌っている(歌詞の)内容と伝わってくる印象が違うというのはとても興味深いです。そしてそれをカバーする人が出てくるのも面白いです。そうだそうだ、俺もいらんぞ、そんなもん、と言っているみたいで。なんでもかんでも欲しがったり独り占めしようとしたりするのはみっともないです。そういう痛烈な主張を、こんなふうにさりげなく歌っているのです。大人です。本当に必要なものだけが荷物です。

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2017年6月15日 (木)

『まほろ駅前番外地』(TVドラマ)

妻が大大好きだという、瑛太くんと松田龍平主演の『まほろ駅前番外地』の第一話「プロレスラー代行、請け負います」を観ました。

オープニングから、主役二人に雰囲気があってカッコよかったです。まほろ駅前で便利屋を営む多田(瑛太)と、その「従業員」行天(松田龍平)が、地元のプロレス団体で唯一現役を続けてきたスタンガン西村の引退試合の相手役を引き受ける話です。

カッコいい二人が、なんとなく情けなーい感じで試合に向けて特訓する様子や、時々見せる人情味あふれる表情、スタンガン西村が抱えるセンチメンタルな事情などどこ吹く風といったコミカルな展開がおかしかったです。と思っていたら、テレビドラマ放送時のキャッチコピーは、「いろいろあるのさ、誰だって」というものだったようです。

三浦しをんさんの小説が原作で、ドラマの他にも映画もあるみたいです。うちには原作の二作『まほろ駅前多田便利軒』と『まほろ駅前番外地』があるので、ドラマの続きを観ながらこの二冊を読んでみようと思います。

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2017年6月14日 (水)

「Save Me Jesus」

ボビー・チャールズの「Save Me Jesus」をふと思い出して、『ボビー・チャールズ』(1972)を聴いています。ザ・バンドのリック・ダンコとの共同プロデュース作で、雰囲気は1970年代前半のエリック・クラプトンみたいなアルバムです。

4曲目に収録されている「Save Me Jesus」は、世の中に対するシニカルな歌詞を、自宅のリビングで気の合う仲間と演奏しているみたいな落ち着いた雰囲気のサウンドに乗せて、小気味がいいです。

音楽にしても文学にしても、才能のある人の頭や体の中から自然に出てくるものではなく、きちんと作って産み出しているのだと思います。でも、そういう創作過程の大変さを感じさせないぐらい作り手の存在や雰囲気に自然にフィットした作品は魅力的です。

この曲も、歌詞はけっこう刺激的なのですが、曲調はとても落ち着いていて、そのギャップにも唸らされます。想いと表情はいつも必ず一致するとは限らないということに通じるものがあるように感じます。


So when you take me, Jesus
Please put me among friends
Don't put me back with these power crazy
Money lovers again

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2017年6月13日 (火)

おとーさん。

何日か前から息子がぼくのことを「おとーさん」と呼ぶことがあって、戸惑っています。これまでずっと「パパ」だったのに。保育園で先生が「お父さんが迎えにきたよ」と言ったりするので、それで息子も真似して言うようになったのだと思いますが、それにしても急です。「今日ね、おとーさんがね……、」とか切り出されると、誰かお友達のお父さんのことを言い出したのかと最初は思ってしまいます。

それで、話をちゃんと聞くために「お父さんって、誰? パパのこと?」と確認してしまうこともあるのですが、すると「ちがった! パパだった!」と言って(別に違わないのですが……)、それからはまた「パパ」と呼ぶようになったり、しばらくするとまた「おとーさん」に戻ったり、どうやら今が移行期のようです。

「パパ」にしても「おとーさん」にしても、そう呼んでもらえたりそう呼べたりすることが、それだけでどれだけ幸せなことなのか、つくづく思います。

それにしても、「パパ」と呼ばれるのと「おとーさん」と呼ばれるのとで、こうも印象が違うのかと、そのことでも戸惑っています。口髭でも生やそうかと思ってしまいます。

今のところ、呼び方が時々変わるぐらいで、それ以外の過ごし方とかは今までのままです。

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2017年6月12日 (月)

「Jack Kerouac Reads On The Road」

以前は翻訳中に(つまり一日中)、よくジミー・スミスの『Root Down』をかけていました。翻訳と音楽のグル―ヴィンな気分が相乗効果をもたらして、どんどんどんどん気持ちよくなれたのです。その感覚は今も体で覚えているみたいで、あいかわらず調子が出てきます。

でもこの間から、同じ調子で机に向かっていると気分を変えてみたくなることが多く、何がいいかなあと思っていろいろ試していたのですが、今のところ、ジャック・ケルアックの『reads On The Road』に落ち着いています。

「Ain't We Got Fun」や「Come Rain or Shine」、「When a Woman Loves a Man」といった曲をジャック・ケルアックが歌い、ジャジーな演奏をバックにケルアックが(『路上("On The Road")』とは別の「詩」だと思うのですが)「On the Road」など自作の曲を歌い、同じ詩にトム・ウェイツが曲をつけて歌い、そして何より、『路上』の一部をケルアックが朗読したものまで収録されています。

朗読も音楽もリズムが心地よく、気持ちを落ち着けて翻訳に集中できます。できるのですが、最後に収録されているトム・ウェイツの「On The Road」はインパクトが大きすぎて、ここはかなりの頻度で一旦集中を切らすことになります。アルバムとしてはその直前の曲がエンディングで、トム・ウェイツはボーナス・トラックのような位置づけかなと思います。気前のいいボーナスです。

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2017年6月11日 (日)

ちゃんと家に帰る。

息子は夕方になると毎日のように、「ほうきするーっ」と言って家の前の落ち葉やなんかをせっせと掃いて集めたり、電車に見立てた台車にぼくを乗せてごろごろと運んでくれたり、花に水をやったり、バケツに砂利と水を入れてじゃらじゃらとお米をとぐ真似をしたり、いろんな遊びを考えてはそのどれもこれもに熱中して、なんせなかなか家に入ろうとせずに困っています。

でもこの間、「そろそろ入ろか」と言うと、どういうわけかすんなりとほうきやバケツを片付けて家に入り、奥の台所で夕ご飯の準備をしている妻に向かって「ママーっ、ちゃんと帰ってきたよー」と言っていました。

なんか嬉しくて、とても嬉しかったのですが、その後、手を洗う洗わない、ちゃんと洗った石鹸つけてない、ということでやはりすんなりとはいきませんでした。

でも、小さい息子が、ちゃんとママのところに帰ってきたよ、と言いながら家に入っていく様子は見ていてとても嬉しいものでした。誰とどこで遊んできても、これから大きくなって何でも一人でできるようになっても、ちゃんと帰るべき家があるということを、いつまで経っても信じて疑わないぐらい当たり前のこととして覚えておいてほしいと思います。

そしてこれは、偶然というにはぼくにとってはあまりに奇蹟的なのですが、「ママ、ちゃんと帰ってきたよ」というのはぼくの大好きなキャラクター、ダーモット・ブラウンの大好きなセリフとそのまま一致するのです。放蕩の限りを尽くしても、母は愛する四男坊の帰りを待ち続け、帰りたくても愛するが故にずっと帰れずにいた母のもとに、長い長い遠回りの末に帰ってきたダーモットのこのセリフは、アグネス・ブラウン三部作の完結編『グラニー』(ブレンダン・オキャロル)のp.222に絶賛掲載中です。

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2017年6月10日 (土)

新しいテキスト。

一年半ぶりに再会した「はじめての文芸翻訳講座」ですが、テキストもこれまで使ってきたものではないものを用意しています。新たな気持ちで取り組むということもありますが、この講座を開講した時の理由の一つとして、実際に翻訳する機会を作る、ということがありました。

翻訳は、とにかくできるだけたくさん本番として翻訳をすることで本当の力がついてくると思います。練習としてではなく。実際に仕事としてできる翻訳が当然それに該当するのですが、ぼくにはまだその機会が足りなくて、しかも全然足りなくて、「はじめての翻訳講座」を始めた時も足りなければ、あれから10年経った今も、まったく足りていません。だから、限りなく本番に近い翻訳機会を持つために、テキストを用意して、自分を「講師」として認めてもらえる人たちに集まってもらって臨める(あるいは挑める)「翻訳講座」を開講したのです。

2007年の開講から一年半前の中断前までに使ったテキストは、8作品です。今回はそれを使わず、新たに5作品を準備していて、候補として検討しているものも他に3作品あるのですが、実際に翻訳を済ませたのは、そのうちの1つだけです。それを、夜な夜な読んだり翻訳したりしています。息子が寝てから。

当初の狙いどおり、自分にとって貴重な翻訳の時間となっているだけでなく、始めてみると、この間の日記にも書いたように、参加してくださる皆さんのおかげで、とても刺激的なライブ感覚を味わわせてもらっています。芦屋を離れても気にかけて下さっている方もいるし、講座を中断してから再開を待って下さっていた方もいるし、遠く離れたところから参加してくださっている方もいます。

ぼくは東京で翻訳の勉強をしていた頃、片岡しのぶ先生と中田耕治先生に師事し、実際に教室に通っていたのは一年ちょっとだったと思うのですが、ずっと影響を受けています。いろんな状況は異なりますが、それぐらいの責任感をもって、この「はじめての文芸翻訳講座」を運営していきたいと思っています。

そのためには新しいテキストを準備するだけでなく、翻訳家としての仕事をきちんとやっていかないとと思っています。だから、18年前に『マミー』の企画書を持って営業したみたいに、また企画を作るべく、その準備も着々と進めています。

2017-2018シーズンを、翻訳家としてのぼくの「第三章」のはじまりにする気満々です。

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2017年6月 9日 (金)

ほらくる Night.

昨夜、実家の母から妻に電話がありました。最近、携帯会社からの何かの案内のメールがけっこう頻繁に届くみたいで、何か対応しないといけないのか、それとも放っておいていいのかということでした。

そんな電話をしながら突然、妻がえらい嬉しそうに「はい、ほらくっといたらええんです。ほらくっといてください」と言い出したのは、おそらく電話の向こうで母が、「ほらくっといたらええんかん?」と言っていたのだと思います。「ほらくる」というのは「ほうっておく」という意味ですが、それが面白かったみたいです。そういえばぼくもしばらく使っていませんでした。

方言に対する愛着は、持っているとその分だけ気持ちが豊かになれる気がします。お盆には帰りたいなあと思っています。

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2017年6月 8日 (木)

「過去のこの日」

Facebookに「過去のこの日」という機能があるので、けっこう気になって(というか気に入って)毎日見ています。

息子を見ていてつくづく思うのですが、昨日までの自分より少しでも成長するということは、とても尊く、もちろん簡単なことではありません。清志郎さんとか浜田さんの歌を聴いていて思うのは、少ない言葉数に込められた精一杯の心が、気絶しそうになるほど力強く、どてっ腹に響きます。たくさんを求めず、少しでもいいからぎゅっと本当に必要なだけの手応えを感じながら、今日を過ごして明日を迎えたいものです。

ちなみに今日の「過去のこの日」に表示されていたうちの一つは、2013年の日記「ひとつの豊かな世界」です。松江に来て一年が経とうとしている頃で、姫路の友達にこのブログをほめてもらって喜んでいる日記です。今のぼくが取り返そうとしている時期の自分ということもありますが、改めて読み返すと、もっとちゃんと頑張らないとと思います。

 >>> 「ひとつの豊かな世界」

そしてもう一つ、「過去のこの日」に表示されていたのは、その一年後の2014年の日記「ねむい」です。これはだめです。いけません。いろいろ書いていますが、要約すると「ねむい」と三語におさまります。

 >>> 「ねむい」

一日単位とか一年単位とかで今の自分と比べて、それでどうだこうだと言ってみてもしょうがないのかもしれませんが、楽しく面白がっています。

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写真は、この間、美保神社に行った時のものです。ちょうどぼくたちが行った時に、太鼓や笛の音とともに巫女さんの神楽舞が始まって、息子も嬉しそうに見ていました。「いいねえ、ここ」と言っていました。

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2017年6月 7日 (水)

短くなった休憩時間。

毎日、夜の休憩時間に妻とコーヒーを飲んだりプリンを食べたりしながら、今日はああだったねこうだったねと、おもちゃや絵本の転がったソファに座って話すのですが、先々月の下旬から、「解決せなあかん事件があるから」と言って切り上げられています。

そしてぼくがとぼとぼと二階の仕事部屋に引き上げ始めると、ブルーレイプレイヤーの電源を入れて、入れっぱなしのディスクのメニュー画面から今日の事件をセレクトして、大大好きなホームズを食い入るように観ています。最初の頃は確か週末だけだったような気がするのですが、最近は毎晩で、だから全部で41話収録の、今はすでに二周目に入っています。事件は解決したけど、細部に見落としがないかどうかチェックしているそうです。本当に熱心に観ています。

ぼくも時々横で見ることがあるのですが、気がつけばワトスン君の立場で観ていることが多いです。

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文庫本も鞄に入れて持ち歩いているようです。

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