2017年8月22日 (火)

翻訳講座(火曜クラス)7.

今日は楽しくてしょうがない「はじめての文芸翻訳講座」(火曜クラス)の第七回でした。今はサキの"The Open Window"を翻訳しています。その前の小泉八雲先生の"Hi-Mawari"もそうでしたが、これだけの短さの中に、どれだけの奥行きと広がりがあるのかと思うほど、読めば読むほど「想像の余地」を見出します。

でもたとえば、ある日のできごとを切り取った短い物語の背景には、登場人物たちのそれまでの人生や切り取られなかった物語が控えているわけで、切り取られなかった物語を読者が想像するのはきわめて自然なことであると同時に、読者にそこまで想像させる切り取り方、書き方の妙、ということもできます。

※「想像(の余地)」は、自分ではないものを受け入れるために必須の作業、心構え、スペースです。というようなことを、今週土曜日に予定されている松江市立図書館の定期講座「小泉八雲に学び・親しむ」でお話させていただく予定で、いま一生懸命準備中です。

"Hi-Mawari"は90分×3回、"The Open Window"は90分×5回で全訳します。事前に指定した箇所を宿題として翻訳したうえで参加していただいていますので、実際に翻訳にかける時間はそれ以上です。普段の読書にこれだけの時間をかけるわけにはなかなかいきませんが、それでも作者はどういう思いや意図をこの言葉に込めたのか、と考えながら読み、そこに思いを馳せるには、ある程度の時間が必要です。読んだ後の余韻も含めて、本を読むには時間が必要なのです。読書は作者や登場人物と一緒に過ごす時間だからだと思います。

翻訳 takes time, and the time is its reward.

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2017年8月21日 (月)

田和山史跡公園。

今日は保育園から帰ってきた息子と一緒に、「どんどん」に登ってきました。田和山史跡公園のことです。けっこう急な階段を、どーんどーん、と言いながら登るので「どんどん」です。

ここは息子が小さいときからよく来るお気に入りの場所で、最初は息子が三歳になる前だったと思います。その頃はもちろん自分では登れないので、抱っこして登りました。頂上でおにぎりを食べたり、飛行機を見送ったり、ミニカーみたいな車を見下ろしたり、宍道湖を眺めたり、よく行く本屋さんが見えたり、自分の足で登れるようになったり、下りられるようになったり、息子も今では前回とか前々回登った時のことぐらいは覚えているし、もしかしたら大きくなってから思い出してここに来て、何か思い出すこともあるかもしれません。今は今のことだけで息子もぼくたちも必死だけど。

ぼくたちの計画や意図とは別のところに、流れている時間とか蓄積されていく思い出とかはあるのだと思います。

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2017年8月20日 (日)

伝わり方。

妻が面白そうに『未亡人の一年』を読んでいます。妻のおそらくオールタイム・ベストなんだと思います。本は読む時期やタイミングで感じ方も変わってくるので、特に好きな本はある程度の時間が経ったり環境が変わったり、またああなんとなく読み返したいなと思ったりした時にまた読みたいと思いつつ、ぼくなんかは読み返すよりは新しい一冊を手にしてしまったり、あれも読みたいこれも読みたいと思いながら何も読めなかったりするのですが、妻は好きな本を大事に読みます。

たぶん妻は、『未亡人の一年』のどこがそんなに好きなのか、いくらでもしゃべれると思うのですが、気がつけばまた読んでいたり、読んでいる姿を見ていたら、しゃべってもらうまでもなく、好きなんだということは分かるし、面白いんだろうなと思えるし、ぼくもまた読んでみたくなります。

そういう伝わり方がいいなあと思うんです。

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2017年8月19日 (土)

「HUSTLE」

夜な夜な、チャボさんの「HUSTLE」を口ずさんでいることが多いことに気づきました。


ハッスルする 朝な夕な
ハッスルする 夜な夜な
ハッスルする 年がら年中
ハッスルする まだまだ

引き出しの中にある 俺のバイオリズム

ほらごらんよ 流れる雲 あの広い空
そのうちなんとかなるだろう.....か?

ハッスルする、だなんて今どきあんまり聞く言い方ではありませんが、それがこんなにもカッコよく響くなんて、嬉しくなってきます。チャボさんのサード・アルバム『DADA』(1993)に収録されている曲ですが、麗蘭の磔磔ライブでよく聴きました。聴くたびにカッコよさにしびれたものです。

伝わろうが空回りしようが、本当に思っていることや感じていることしか言葉にはならないのだと思います。そのはずです。

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2017年8月18日 (金)

『Vanessa Paradis Live』

レニー・クラヴィッツを聴けば次にヴァネッサ・パラディを聴くのは、金曜日の後に土曜日が来るぐらい自然なことです。

レニーがプロデュースしたアルバム『ヴァネッサ・パラディ』(1992)は本当によく聴きました。当時持っていたCDには「gotta have it」というファンキーな曲が入っていたように記憶しているのですが、今手元にあるCDには入っていません。レニーとのことがけっこうドキッとするような感じで書かれている曲だったからかなあと思いますが、あったはずのものがないとなると落ち着きません。ぼくがレニーを聴いて思い出すヴァネッサ・パラディが歌っているのはこの曲なのです。

だから、ライヴ・アルバム『ヴァネッサ・パラディ・ライヴ』(1994)を聴いています。「gotta have it」だけでなく、ヴァネッサのヒット曲(「natural high」、「sunday mondays」、「be my baby」)はもちろん、ストーンズのカバー(「as tears go by」)、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのカバー(「i'm waiting for the man」)も入っていて、大満足のライヴ盤です。

そういえば、ヴァネッサ・パラディといえばパトリス・ルコント監督の『橋の上の娘』、アラン・ドロン&ジャン=ポール・ベルモンドと共演した『ハーフ・ア・チャンス』も大好きな映画でした。

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2017年8月17日 (木)

『Mama Said』

レニー・クラヴィッツのセカンド・アルバム『Mama Said』(1991)を聴いています。レニー・クラヴィッツを聴いていると、「ひしくる」という勝浦弁を思い出します。「叫ぶ」という意味なのですが、もっと気が動転しているような時に、抑えきれない不安定な感情を隠そうともしないで、周囲への配慮も忘れて大声・奇声を発するイメージです。小さい子供が泣きじゃくる時とか、大人でもあまりの恐怖や怒りで我を忘れてしまった時とか、ひしくります。

レニーの場合は恐怖や怒りというわけではなさそうですが、特にひしくっていると思うのは、このアルバムの三曲目に収録されている「All I Ever Wanted」です(ショーン・レノンが作曲とピアノで参加しています)。アルバム前半のハイライトとも言える一曲なのですが、盛り上がってくるにつれて、聴いていてびっくりするほど、そして途中からは「レニー、ひしくりやるわー」と思うほどひしくっています。

そういうインパクトもありつつ、前作『Let Love Rule』に続いて、洒落ていながらソウルフルで、ロマンチックで、優しくて深い慈愛に満ちていて、シンプルな音が豊かなイメージを連れてきてくれて、張り裂けそうなほどのカッコよさが突き抜けています。

レニー・クラヴィッツを知ったのはサード・アルバム『Are You Gonna Go My Way』(1993)のタイトルトラックがラジオでヘヴィローテーションされていた時で、しかもこれが衝撃的なほどカッコよかったので、今では『Are You Gonna~』以上に大大好きな『Let Love Rule』も『Mama Said』も、その後に買って聴いたということもあってか、しばらくはあまり印象に残りませんでした。それよりも何よりも「Are You Gonna~」だったのです。

息子の黄色いタクシーがきっかけで昨日から久しぶりに聴いていますが、一緒になってひしくりたくなるカッコよさです。

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2017年8月16日 (水)

ミニカー。

息子のミニカー・コレクションが膨大になってきました。もう何台あるのか、何を持っていて、何は店頭で見ただけなのか、ぼくはだんだん分からなくなってきているのですが、息子はよく覚えていてびっくりします。

覚えているだけでなく、白い日産キャラバンと赤い広域消防車は同じだとか、ケバブの移動販売車とスズキのキャリーが同じだとか、郵便車とパトカーが同じだとか、他にもベースとなっている車が何に使われているかということを、当然のように見抜いています。

新しく買ってもらったミニカーと前から持っているミニカーが、見た目は違っても一緒だと分かったり、町に出て実際に走っている車を見て「もってるやつーっ!」と嬉しそうに叫んだり、もしかしたら何年かして息子がニューヨークに行ったりしたら、小さい時に買ってもらったミニカーと同じタクシーが走っているのを見て懐かしく思うことがあるかもしれないし、なんかそういう現実の世界とおもちゃの世界と頭の中の世界とそして息子の世界が、だんだんごちゃごちゃと絡み合うようにつながり始めているような気がしています。

昨日は日産のNV200タクシーを買ってもらって帰ってきました。とてもファンキーな黄色いタクシーです。これを見せられてから頭の中ではレニー・クラヴィッツの「Mr. Cab Driver」が流れています。音楽もアルバムタイトルも文句なしにカッコいいファースト・アルバム『Let Love Rule』(1989)です。

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2017年8月15日 (火)

うれしかったこと。

今年の夏は勝浦の実家で三泊しましたが、息子はさすがに疲れて寝てしまった最後の夜以外、「いつものおうちにかえる」と言って大変でした。普段はあまり見せたことのない涙をぽろぽろとこぼしながら、本当に心細そうに、妻に抱っこされて、ぼくもすぐ横にいたのに、それでもどうにも泣きやみませんでした。

二日目の夜は父と母が一緒に起きていてくれて、まるで大したことじゃないかのように話し相手になってくれて、それで息子も気が紛れたのか、楽しそうに、でも疲れて眠そうに、心細さも不安も全部忘れたような笑顔で、秒針の音と笑い声をBGMに夜が更けていきました。

ぼくも小さい頃、同じようなことがありました。今の息子と同じでまだ小学校に上がる前、駅をはさんで向こうの町に住んでいたばあちゃんの家に兄と二人で泊まりに行ったのです。ぼくはばあちゃんが大大好きだったので、楽しみで楽しみで、楽しくて楽しくて、でも寝る時間になって、「家に帰る」と言って泣き出してしまったのです。ばあちゃんが背中をさすってくれたりあやしてくれたり、二階の押し入れから大きなゾウのぬいぐるみを出してきてくれたり、他にもいろんなおもちゃを出してきてくれたりしたのですが、それでもぼくは泣きやまず、ばあちゃんが家に電話してくれて、父と母に迎えに来てもらってその夜は結局帰りました。兄は一人で泊まっていったのか、それとも一緒に帰ったのか、覚えていないのですが、ばあちゃんが家に電話をしている間、父と母が迎えに来てくれた時、父の車に乗りながら、ばあちゃんに見送られながら、「なんで泣いてしもたんやろ、ばあちゃん好きやのに、なんでこんなことになってしもたんやろ、まだ一緒におりたいのに」と思っていたことを覚えています。

息子も、二日とも翌朝になって「ないちゃったの」と言っていました。

ぼくは自分が小さかった頃のことを、都合のいいように覚えているだけのような気がします。手のかかる子供だったはずです。昔のそんなことは何も言わずに一緒に起きていてくれた両親は、ぼくを迎えに来てくれた時と同じだなあと思いました。

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2017年8月14日 (月)

いつもの電車。

慌ただしくものんびりさせてもらった帰省を終えて日常に戻り、またさっそく朝から息子といつもの電車に乗ってきました。

今日はJRの赤い電車とばばあ電車に乗りたいと言うので、米子経由で河崎口まで行って折り返すルートだったのですが、赤い電車が来るはずのところに黄色い電車が来たり、ばばあ電車かと思ったらなんと神楽電車が来たり、慣れたはずのいつものルートがいつもの感じとは違って、息子の「なんでー?」にいつも以上に閉口させられました。

でも息子と電車に乗るのは実はかなり久しぶりで、ぼくもかなり楽しかったです。本当に電車が好きなんだなあと思える笑顔だし、始終嬉しそうで、何番線から乗るのか確かめようとすると「こっち」と言って手を引っぱってくれたり、好きなことをしている時間は活き活きとして、表情も瑞々しく、きっと大事な時間なんだろうなあと思えます。見習わないといけないところが多いです。

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2017年8月13日 (日)

帰省最終日(8/13)

帰省最終日は、初日と同じく移動の日でした。またしても長い長い道のりを、海辺のワインディングロードや湾岸の洒落た高速道路や山を突っ切るトンネル、谷間を縫う道路を走り、妻と息子は途中でやはり電車に乗り換えて、ぼくは道を間違えたり引き返したりしながら走り、走り、走っても走っても走り、走りながら、帰省前より大きなやる気を心にしまっていることを自覚しながら、松江に帰ってきました。

両親には一日いちにち、毎日、いつまでもずっと、元気でいてほしいと思います。頼むで、しかし。

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2017年8月12日 (土)

帰省三日め(8/12)

今日も海に行くつもりだったのですが、予定を変更して妻と息子は特急くろしお号に乗って(特急に乗るにはあまりに近い)串本まで行ってきました。行ってきただけです。並走していたぼくの車に乗ってそのまま帰ってくるという、ただ電車に乗りたかっただけという、どこに行っても変わらないうちの息子の希望を叶えただけのアクティビティです。大満足の表情で駅から出てきました。

電車の何がそんなに息子を魅了するのかなあと思います。特に連結部分を見るのが好きで、足元の金属板の形状や枚数、揺れ具合、さらには幌の部分が風を孕んで膨らむ様子とか、車窓の景色以上に魅力的みたいです。広い広い太平洋の青色とか、大きな山の深い緑とか、もくもくと広がる夏の雲の白とか、ぼくなんかはそっちのほうがいつまででも見ていられるぐらい見飽きないのですが、たぶんそれは息子に言わせると、それらの何がパパをそんなに魅了するのかということなんだと思います。

くろしお号を満喫した後は、お墓参りに行ってきました。遠くに海が見える高台(というと洒落た感じが出てしまいますが山裾にへばりつくようなところ)にあって、小さい頃からここがいくつ目かの心の故郷みたいな気がしています。ところどころへこんだブリキのバケツに水を汲んで、柄杓を突っ込み、花と線香とマッチを持って、崩れかけたような石段をじゃりじゃりと歩いていると、絶妙なバランスで寂しさと微笑みがそっと胸に訪れます。

帰りは細々と雨が降る中、妻と息子は「くじらの町」太地から紀の松島巡りの「かめ号」に乗って帰ってきました。

夜は花火大会があったので、歩いてすぐのところにある公園で、ベンチに座って見ました。海岸まで行くときっとすごい人混みだったはずですが、ここの公園はよく見えるのに、近所の人が十人程いるだけで、みんなベンチやぶらんこに座ったり、すべり台に上ったりして、遠くであがる(わりに大きく見える)花火をそれなりに歓声を上げながら眺めて、のんびりと夏の夜を楽しめました。息子も最初は大きな音に怖がっていたのですが、気がつけば隣りに座っていた知らないおばちゃんと仲良くなっていて、花火も楽しかったみたいです。

夜は三日目にして初めて、おそらく疲れのために、すやすやと寝てくれました。それでもたぶん、泣き出す直前だったと思います。息子にとっては大冒険の真っ只中なのかなあと思うと、よく頑張ってくれています。

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2017年8月11日 (金)

帰省二日目(8/11)

勝浦で起きるのは久しぶりでした。気持ちのいい朝だなあと思いました。息子も昨夜の興奮はすっかり忘れたように、機嫌よく起きてきました。帰ってくる前に松江で買ったビニールのボートも車に積み込んで、朝から那智の浜に泳ぎに行きました。

息子はぼくと一緒で慎重(と言えば少しは聞こえがよくなるかもしれませんが怖がり)で、浮き輪をしていてもぼくにしがみついてきて、でもしがみついてでも楽しみたいぐらい海は好きみたいです。妻と息子はしっかり日焼け止めを塗っていたので、ぼくだけ真っ黒になりました。

昼からは兄と上の姪っこが遊びに来たので、遊んでもらいました。兄の車を見せてもらったり、ミニカーを見せてあげたり、去年もそうだったのですが、最初はやっぱり緊張していて、でも去年と違うのは、自分で「きんちょうする」と言えるようになったことです。それで慣れてきた頃にはバイバイすることになるのです。

そして二日目の夜も、やっぱり「いつものおうちに帰りたい」と言い出して、初日よりもさらに激しく泣き出してしまったところ、じいちゃんとばあちゃんが一緒に起きていてくれて、ずい分と助かりました。なんとかなだめようとする妻に抱っこされたまま、じいちゃんとばあちゃんがまるで大したことじゃないかのように普通に接してくれて、なんというか、余裕を感じました。手を焼く時は、きっかけが何だったとしても、なんとか大人しくさせよう、周りに迷惑をかけないように早く大人しくさせようと思って焦ってしまいますが、そんな親の都合を持ち出せば途端にヒートアップするということは、自分の子供の頃を思い出せばすぐに分かるはずのことです。大事な息子のことだけを見ていてあげたいと思いました。

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2017年8月10日 (木)

帰省初日(8/10)

朝早く起きたら土砂降りでした。そんな中、じいちゃんとばあちゃんが待つ勝浦を目指し、長い道中、息子は狭い車内で大人しくしていられるのかどうか、途中で妻と息子だけ電車に乗って再合流する時にうまく待ち合わせできるのかどうか、一年ぶりの勝浦の部屋で大人しく寝られるのかどうか、思いつく不安は全部家に残して出発しました。

目的はもちろん一年ぶりの帰省なのですが、息子だけは一年ぶりの阪急電車、阪神電車、JR新快速、できれば他にも、と電車に乗ることが楽しみで、出発したばっかりだというのに、「駅についた?」の連発でした。去年の帰省以来、電車の本に載っている阪急電車や阪神電車、特急くろしお号の写真を眺めては、「またこんどこれのる」と口癖のように一年間言い続けてきたことがいよいよ実現するとなれば興奮もするだろうし、ぼくたちもようやく乗せてあげられると思うとやっぱり嬉しかったので、「ついた?」「まだだよ」と繰り返すマシーンと化したかのように言い続けていました。

雨はいつの間にか上がって、お盆の帰省ラッシュもまだ始まっていなかったようで、米子自動車道も中国自動車道も快適でした。西宮北で降りて、妻と息子はJR西宮名塩駅から電車の旅です。合流地のJR堺市駅を目指して、ぼくはそこから再び中国自動車道に乗って、阪神高速に乗り換えて、車線数も車数も速度も普段の何倍速かと思うような自動車道を久しぶりに走って、堺市駅で無事に合流できた時は、息子はまだ電車に乗っていたかったみたいで機嫌が最悪でした。

それをなんとかなだめながら、まだ残り半分以上の道のりを、今回の長旅用に作成したプレイリストを楽しみながら、片側一車線の曲がりくねるにも程があり、どこまで行っても景色は山かその隙間に見える海だけという長い長い自動車道をどこまでもどこまでも南下しました。

01. Baby #1
02. プリプリ・ベイビー
03. タッペイくん
04. Oh! Baby
05. 鉄人パパ
06. パパの歌
07. パパの手の歌
08. ラッキー・ボーイ
09. 仕草
10. ブーアの森へ
11. 愛を謳おう
12. 魔法を信じるかい?

ようやく辿り着いた実家ではじいちゃんとばあちゃんがはち切れるかと思うぐらいの笑顔で迎えてくれて、息子もなんせ一年ぶりなのでだいぶ緊張しながらも饒舌に話しかけていて、ホッとしました。

帰省の一日目はほとんど移動で終わったのですが、寝る時間になると息子が「いつものおうちに帰る」と言い出し、しかも涙をぽろぽろと流していて、長旅の疲れもあったと思うのですが、寝かしつけるのが大変でした、妻は。ぼくは横でいつの間にか寝ていました。

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2017年8月 9日 (水)

「Feel Like Going Home」

家に帰る気分です。夏までにやっておきたかったことがいろいろあったのですが、ほとんどできないままどんな気分で帰ろうかと思いますが、帰る家がある幸せと、一緒に帰る家族がいる幸せを噛みしめながら帰ります。帰るよー。

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2017年8月 8日 (火)

翻訳講座(火曜クラス)6.

今日は「はじめての文芸翻訳講座」(火曜クラス)第六回の日でした。

もはや「はじめての」の部分が要らない内容になってきています。場面の様子は細部に至るまでみんなで共有できているのに、それでもそこで使われている単語(副詞)一つの意味というよりはニュアンスがうまくイメージできず、どういうことでしょうねと、ずい分と時間をかけたところが二か所もありました。もしかしたら翻訳文にはそれほど影響はないかもしれないところでも、しっくりこない箇所が二つ、三つと積み重なってしまうと、少なくとも翻訳中の気持ちには影響が出てきます。自信を持って翻訳できているということも文章の説得力や落ち着きにつながってきます。

この間、受講してくださっている方に「(翻訳は)ことばの総合格闘技って感じ」だという感想をいただきました。なるほどなーと思いました。言葉と格闘するということは、思考や頭の中のイメージと格闘するということでもあります。言いたいことがあるんだけれど、それは一体どういうことなのか、諦めずにきちんと考えるということです。頭の中にあることを明確にして、それを伝えるために最も的確で有効な言葉を自分の頭の中か胸の奥に探すのです。

ということはつまり、その言葉には自分の思考やイメージが込められているわけです。とてもソウルフルなことだと思います。思考やイメージや、つまり魂のこもっていない言葉は誰にも伝わりません。

I'm on a road, driving a truck loaded full with good loving for 翻訳.

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↑いつも朝日公民館(松江市東朝日町49)さんにお世話になっています。ちらしも置いていただいています。

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2017年8月 7日 (月)

Don't look back.

以前は、走ったりカヌーをしたりしながら、無心になったりぼんやりと考えを整理したり、その前後で頭のなかの透明度がまるっきり異なる基盤づくりみたいなことをよくやっていたなあと、何がきっかけだったかさっきふと思いました。

その上にどれだけのものを積み重ねることができているのかなと、思えば思うほどやる気しか出てきません。

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2017年8月 6日 (日)

皆生 revisited.

皆生(かいけ)の海水浴場に行ってきました。ちょうど三年前に、息子が初めて体験した海です。昨夜、明日は海に行こうか、と言っても最初はあんまり乗り気じゃなかったのですが、三年前の写真を見せると思い出したようで、行くーっ! と笑顔になって急に張り切っていました。

そして今朝、海に着いてまずは砂浜にしゃがみこんで波と砂と戯れて感触を確かめた後、だんだんそれだけじゃ物足りなくなってきたみたいで、昨日買った浮き輪をして、パパにしがみつきながら深いところまで行って、そのうち浮き輪の浮力にも気がついて、ママに手を引っぱってもらって楽しそうにばしゃばしゃやっていました。

お水がいっぱいだねえ、もったいないねえ、と何度か言っていました。(そのわりに普段はおもちゃとか本とかあんまり大事にしてくれているようには思えないのですが、でも、)そうだね、大事にしないとね、と言いながら、しがみついてくる息子をぎゅーっと抱きしめながら一緒にぷかぷか泳ぎました。

身の回りのものを大事にするということは、身近な人を大事にすることでもあると思います。今の無邪気な笑顔を何年も何十年も経ってふっと思い出したときに、いつもそばにぼくたちがいたことも一緒に思い出してもらえたら嬉しいです。

しかしそれにしても暑い夏です。

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2017年8月 5日 (土)

翻訳講座(土曜クラス)5.

今日は「はじめての文芸翻訳講座」(土曜クラス)の第五回でした。先月は第5土曜日まであったため三週間ぶりとなり、しかも火曜クラスも今月は第一火曜日じゃなくて第二火曜日に変更になっているため、とても久しぶりの翻訳講座でした。

翻訳は、やり始めるといつまででもやっていたくなるし、途中で間があくと居ても立ってもいられなくなります。だからこの三週間、予習して、復習して、もう一回予習して、復習して、もう一回予習して、予習して、それでもまだ三週間が経たないので、次のテキストを何にしようかと思って、あれを引っぱり出してきて翻訳したり、これも引っぱり出してきて翻訳していろいろ比べながら考えたり、そんなことばっかりしていました。それで結局、この間の「down in the valley」の一件があって、次のテキストを決めたところでした。

翻訳をするうえで、原文を読んだ時とできる限り同じ読後感を持ってもらえるように再現することを目標にしているのですが、自分の判断と、他の誰かに読んでもらった時の感想や印象が必ずしも一致するとは限らないし、それは他の誰かというのが誰かにもよります。必ずしも読者は自分の意図したとおりに読んでくれるとは限らないということを想定して翻訳するのと、実際に読者がいて実にさまざまな感想をいろんなところで述べてくれるのとでは、覚悟も刺激も運動量も異なります。

ぼくは会社員を辞めて翻訳家になると決めた時、翻訳の勉強家になりたいわけじゃなく、翻訳家になりたいんだということを強く意識しました。翻訳講座に通ってくださっている皆さんの目的や動機はさまざまだと思うのですが、これまで土曜クラスも火曜クラスも五回やって来て、ぼくのほうこそ皆さんからこんなにもびしびしと刺激を頂いていることを考えると、実際の読者がいる場合とは異なります、だなんて軟弱なことを言わず、覚悟も刺激も運動量も何ら異なることのない緊張感を持って臨みたいと思っています。

翻訳 is calling.

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2017年8月 4日 (金)

過不足のない表現。

過不足のない表現をしたい、といつも思っています。『バースデイ・ストーリーズ』(村上春樹編)の中の「ダイス・ゲーム」(ポール・セロー)の冒頭の六行とか、まさにそんな感じがします。

何やら不満ありげな様子でホテルのロビーに現れた一人の男性を、ホテルの支配人が見つけた瞬間を描写した場面なのですが、男性の慌ただしさと冷静な支配人の表情や心境、距離感だけでなく、心拍数までもが伝わってくるようです。たったの六行で。

この間『文体練習』を読んで、場面の再現なんてそれこそ100通りでもあるのだということがよく分かったし、過不足のないなんて言ったところで何を基準にするかでその判断はさまざまです。

いろいろと言いたいことがある中で、そこにずぶりと腕を突っ込んで、人差し指と親指の爪の先でそっと詰まんだぐらいの核心を的確に表現できれば、意外とどっしりとした文章になるんじゃないかな、なんて思っています、今のところ。

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2017年8月 3日 (木)

「Down In The Valley」

オーティス・レディングの『Otis Blue』(1965)を聴いています。読んでいた本の中に、「down in the valley」という表現が出て来たからです。『Otis Blue』の四曲目が「Down In The Valley」なのです。

その日に何を聴くかは、いつもだいたいこんな感じで決めています。CDラックには自分の好きなCDしか並んでいないので、今から聴きたい一枚なんて決められないし、どうにか決めたとしてもやっぱり他のも聴きたくなってくるので、選ぶにもそれなりにちゃんとした理由が必要なのです。あれもこれも聴きたいけど、今日はこういう理由でこれを聴いているんだと思えたら落ち着くことができます。

ぼくはどうやら昔からそういうところがあって、新聞を読んでいても雑誌を読んでいても、あっちの記事もこっちの記事も気になって、なかなか集中して読めなかったりします。でも自分のそういう傾向に気づいてからは、それなりに対策を取ることができるようになったので、大きな問題もなく今に至っています。

ところで『Otis Blue』ですが、サム・クックやストーンズ、B.B.キング、テンプテーションズのカバーもあって賑やかなのですが、それでもガッタガッタとリズムを刻む「リスペクト」とザ・ソウル・クラシック「I've Been Loving You Too Long」が決定的に印象的で、やはりオーティスの代表作というイメージで聴いています。

そんな中、サム・クックの「A Change Is Gonna Come」と必殺のラブソング「I've Been Loving You Too Long」にはさまれて「Down In The Valley」が歌われるのですが、ものすごい主張です。歌い方がユニークで、発声の中に埋め込まれた言葉が音のような声の塊りの中から身をよじりながら出てくるイメージです。この曲のオリジナルはソロモン・バークです。

「down in the valley」という表現が出てくる話は、次の翻訳講座のテキストに決定です。オーティスはもちろん何の関係もない話です。

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