2018年6月23日 (土)

翻訳講座(土曜クラス)25.

今日は「はじめての文芸翻訳講座」(土曜クラス)の第25回の日でした。梅雨の晴れ間の貴重な週末、今日も朝日公民館の一室でハリー・ナッシュとへリーン・ショーの物語を読みました。

電話会社に勤める内気なへリーン・ショーが、どういう風の吹き回しか、誘いに応じて劇団のオーディションにやって来て、『欲望という名の電車』のステラ役に挑戦するシーンです。でもやっぱり、どうしても感情をこめて読むことができず、電話会社に来た顧客に対するのと同じような、取ってつけたような愛想笑いが精いっぱいなのです。

そこで、審査員を務めるベテラン劇団員のドリスが、ちょっと個人的なことを訊くけれどと断ったうえで、これまで恋をしたことはあるか、あればその時のことを思い出せば演技にも温かみが出るかもしれないわよとアドバイスを送ります。

へリーン・ショーもその質問に対して自分なりに誠実に答えるのですが、このやりとりがけっこう可笑しいんです。ちゃんと質問に答えているのですが、ドリスの意図とはちょっとずれていて、でもへリーンの経験からすればそれ以外に答えようはなく、だからドリスとしては、「うん、なるほど、そうですか……」と言うしかないのです。

一方で答えている間のへリーンは、おそらくきっと、ちょっと目を輝かしたりしていたかもしれません。それぞれの思い、感情の起伏、自信と動揺、といったギャップやずれが、会話のユーモアや可笑しみに通じています。それはセリフとなって出てくる言葉にも表れているはずで、読めば読むほど選ばれた言葉に含まれる想いが伝わってくるようです。

この時点でのへリーンはまだそんな頼りない感じなのですが、初登場となった電話会社でのやり取りのシーンから比べると、少しずつですがすでに変化が見られます。少しずつ動き始めたものはやがて勢いを増し、そこに加勢するものが現れると、もう止められなくなります。次回以降はそういう展開です。

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2018年6月22日 (金)

『The Vault...old friends 4 sale』

プリンスの『The Vault...old friends 4 sale』(1999)を聴いています。相当かっちょいいです。洒落ています。でも、プリンスだったらこれぐらいのアルバムは軽くちょいちょいちょいっと作ってしまうのかな、と思ってしまうぐらいポップというか、ちょっとあっさりしている気もします。

リリースされたのは1999年ですが、レコーディングは1985年から1994年と10年にわたるそうです。ということは、『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』(1985)もしくは『パレード』(1986)あたりから『COME』(1994)もしくは『ゴールド・エクスペリエンス』(1995)あたりまでのアウトテイクだと思います。

帯に、「様々な時代に、様々な場所でレコーディングされた秘蔵音源が熟成の時を経て発表された」とあります。「vault(蔵)」なので音源も熟成されるということだと思いますが、それよりはおそらく、プリンスとワーナーとの間にいろいろあったという確執が絡んでこのタイミングになったのだろうと邪推します。それでも様々な機が熟してのリリースであることは間違いありません。

しかしそれにしても軽快です。ピアノとかサックスとか、軽快です。ちりんちりんと爽やかな風に乗って自転車をこいでいるみたいな、天気がいいのでちょっと近所を散歩していたら偶然プリンスを見かけたみたいな、才能とセンスの塊りみたいなプリンスの片鱗がちょっとその辺に落ちていたみたいな軽快さです。

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2018年6月21日 (木)

「手紙」

サマセット・モームの「手紙」を読みました。読み始めた途端にどっかで読んだことがあることに気がついて、それがちくま文学の森シリーズの『悪いやつの物語』だったことにも思い至ったところでホッとしてしまったのか、ラストシーンの意味がよく分からず、妻に聞いたり、ラストシーンをもう一回、二回と読み返したりして、やっと無事に読み終えることができました。

読書も人づきあいと一緒で、ちゃんと理解しようと思って向き合わないと理解しそびれることが、ぼくの場合、よくあります。要領の入り込む余地のない、本気さが求められる真面目な行為です。

あのいかつい表情の向こうからどんな愛情をもって世の中や周囲の人を見つめていたのか、語る物語に味わい尽くしたような人生の充実がしみじみと感じられます。

この「手紙」では、『悪いやつの物語』に収録されたことからも分かるように、実に悪いやつが登場します。幼気(いたいけ)なふりをして実に強(したた)かです。こんな人が身近にいたらと思うと人間不信に陥りそうですが、それでも描き方によって、物語としてこんなにも面白くスリリングになるんだなと感心してしまいます。いつまでも読んでいたいと思う面白さです。

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2018年6月20日 (水)

「エドワード・バーナードの転落」

『モーム短篇選(上)』に収録されている「エドワード・バーナードの転落」を読みました。第一次大戦後、経済発展の著しいシカゴで次世代を担う二人の意欲的な青年エドワード・バーナードとベイトマン・ハンターが、美しい令嬢イザベル・ロングスタフを共に愛してしまうのですが、イザベルはエドワードを選びます。

ベイトマンは二人の幸せを願って身を引くのですが、エドワードの家が破産、父は拳銃自殺をしてしまいます。エドワードは再帰をかけて知り合いのいるというタヒチに渡り、二年で一旗揚げると約束、イザベルも変わらぬ愛を誓うのです。

ですが、タヒチに渡ったエドワードの様子が一年を経過した頃からどうもおかしいのです。そう思ってベイトマンが様子を見に行くと、それまでとはまるで異なる人生観を持ったエドワードが、のんびりと幸せそうに暮らしているのです。変わってしまった親友の現在が信じられず、帰ってからそれをどうイザベルに報告していいものか、しかも、あわよくばもしからしたらイザベルはエドワードに愛想を尽かして自分と……、なんて邪なことを考えていないわけではないという疚(やま)しさを抱えたまま、ベイトマンは帰国します。

タヒチの見事な夕景を眺めながら、「今という瞬間は束の間ですから。しかしこれは心の奥に永遠に消えぬ記憶となって残ります。」とタヒチの重要人物がエドワードの前で言うシーンがあります。それだけでも印象的なセリフなのですが、将来を見据えるあまり、今という瞬間をなおざりにしてしまっていたり、どんな記憶をも心の奥になど留めることを許さなかったり、ロマンスと日常の間に立ちはだかる壁にそもそも立ち向かおうしないのは、もしかしたら忙しない日常にかまけているいるだけなんじゃないかという、痛切な皮肉にも聞こえます。ロマンスとは、別の価値観を受け入れる度量かもしれません。

相容れない生き方の相違に出会った時に、拒絶するか、何かに思い至るか、大きな岐路だと思います。見過ごすわけにはいきません。幸福を今の自分の尺度からしか眺められないと、改心は転落としか思えないかもしれないけれど、場合によってはそれは解放とか、理解とか、自由であることも少なくないはずです。タイトルまで大いなる皮肉です。

モームの描くタヒチはいつもとても魅力的です。

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2018年6月19日 (火)

翻訳講座(火曜クラス)25.

今日は「はじめての文芸翻訳講座」(火曜クラス)の第25回の日でした。

アマチュア劇団で初めて演出を手掛けることになった男がナレーターを務め、次の演目に決まった『欲望という名の電車』のキャスティングに悩み、マーロン・ブランドが演じたスタンリー役には劇団唯一の「本物の役者」であるハリー・ナッシュに依頼し、スタンリーの妻であるステラの役には、偶然知り合った電話会社の女性職員へリーン・ショーに白羽の矢を立てます。

そして今日の範囲ではオーディションを行なっている最中なのですが、ハリー・ナッシュは圧倒的なまでに迫真の演技を見せて周囲を巻き込み、へリーン・ショーはわが劇団からもようやく若い女性を舞台に上げられるようになるかという淡くも大きな期待を見事に裏切る大根役者ぶりを披露します。

ハリーには過去があり、へリーンにも事情があり、そんな二人が出会ったことで、オーディションは熱を帯び、公演は(次回以降の範囲ですが)活況を呈し、物語に勢いが出てきます。でもそれがドタバタと散らかったダイナミズムを生み出す一方で、ハリーやへリーンが抱えるペーソスを完全に埋没させてしまわないように、かつもちろんわざとらしくならないような位置に据えておく視点というのも意識しておいたほうがいいような気がしてきました。

翻訳は、仕上がったものだけが読者に読んでもらえるものです。その過程は見てもらうことも説明することもありません。過程に理解を示してもらう必要はないと思っています。でも仕上がりの良さや悪さにつながる原因が潜んでいるのが、その過程です。原文を読み込むとか、原文を再現する日本語の選択や推敲といったようなことです。そのうえで、仕上がりに自信を持てる翻訳を目指しています。

テキストはカート・ヴォネガットの「Who Am I This Time?」なのですが、みんなそれぞれ『ロミオとジュリエット』を読んだり、『快読シェイクスピア』を読んだり、『欲望という名の電車』を観たり読んだり、そしてもちろんそれらを踏まえて課題範囲を読んだり宿題をしたり、大変さがそのまま充実だと感じてくれていることを祈るばかりです。

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2018年6月18日 (月)

『草の葉(序詩)』

ホイットマンの『草の葉』を読み始めたのは、去年の4月のことでした。序文だけ読んで日記を書いて、あとはぱらぱらと眺めただけで本棚に片づけていました。読み終えていないのに片づけて、読んだつもりになっているわけではないけれど放ったらかしにしていることがずっと気になっていました。

そもそもどうしてこれを読み始めたかというと、持ち込み企画を作ろうと思っている本に登場する人物が、ホイットマンの詩を暗唱するシーンがあったからです。ホイットマンに限らず、日常的に詩を読んだり暗唱したりするシーンが何度か出てきて、全体的になんとなくリリカルで、引用される詩についてもっとぐっと理解しておかないとと思ったのですが、序文だけ読んで、あとは飛ばして該当の詩だけ読んで、それがちょっと難しかったのでまた日を改めて……と思っていたら一年以上が経過してしまっていたというわけです。

そしてさっきまた序章から読み返して、続く「序詩」を読んだところでまた日記を書こうとしています。


さあ、とわたしの「魂」が言った、
わたしの「からだ」のためにこんなふうな歌を書こう、(わたしたちは一つのものだ)、
 :

と始まるのですが、さっそくぞくぞくします。ぼくは以前から、自分の魂と肉体を無意識のうちに区別しているところがあります。普段は魂と肉体とこの二つを統合する器としての自分の三つが合わさってぼくが成り立っていて、そしてピンチの時に四人目の自分が現れて、ものすごい力を発揮して解決してくれるのです。

感覚的にそんな流れというかサイクルがあったのですが、徐々にその四人が一つにまとまってきたような感触を得始めた頃から、この四人体制について意識することが少なくなってきたように思います。でもまだその名残りは実感としてあります。

このホイットマンの序詩には(もちろん最初の二行以降も含めて)、いつかはきっと消えてなくなる存在としての自分に対する不安を解消して、その時が来るまで安心して毎日の生活に打ち込めるような宇宙的な大きさを感じます。

今回はちょっとずつでもまじめに読み進めようと思います。そして持ち込み企画もそろそろちゃんと形にしないとと思っています。やる気しか湧いてこんわ。

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2018年6月17日 (日)

「死の翼アルバトロス」

『ルパン三世』第2シリーズ第145話「死の翼アルバトロス」を観ました。宮崎駿監督が脚本・演出を担当したエピソードです。

死の商人ロンバッハから超小型の原爆プラグを盗んだ不二子が囚われて、ルパンたちが不二子の救出と原爆を利用した金儲けの阻止に乗り出します。乗り出した先は大空で、ロンバッハが甦らせた原爆プラントを機内に備えた大型飛行艇アルバトロスを、小型飛行機で追いかけるのです。もちろん超小型原爆プラグだとか、原爆プラントだとか、何のことやらさっぱり事情が呑み込めない銭型警部も顔を出し、邪魔をして、職務を全うします。

でもそれ以上に、ルパンたちがロンバッハのやり方に拒絶反応を示し、「泥棒は嘘をつかない」と啖呵を切って巨悪に立ち向かう姿は、第2シリーズのルパンに対する宮崎監督の見解の表われのようにも感じました。ルパンたちの雰囲気も壮大な物語も、ジブリアニメの短篇といった感じです(ちなみにこの第145話の放映が1980年7月28日で、『カリオストロの城』の公開が1979年12月15日です)。

全155話もあるといろんなエピソードがあるのですが、それは大人気ゆえにさまざまな事情を考慮した結果なのだと思います。それにしても、去年の10月からルパンを見始めて、残すところいよいよあと10話となりました。

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2018年6月16日 (土)

出雲弁。

先週ぐらいから、息子の出雲弁が一気にディープになってきました。家ではぼくも妻も出雲弁ではないので、小学校に入って活動の幅が広がって、毎日顔を合わす人が保育園時代に比べて多様になってきたのだと思います。みるみるうちに、「~しちょー?」とか、他にもぼくには馴染みがないために思い出せませんが、よく分からないなあと思いながら聞いていたらどうやら出雲弁だったということが増えてきました。

以前は松江のお父さんやお母さんのお友達が家に来ることが時々あって、そうするとしかもぼくはまだ松江に来たばかりだったので、何を言っているのかまるで聞き取れない会話が飛び交ったりしていましたが、最近は出雲弁に接する機会がほとんどなく、だから息子が獲得しようとしている言葉の向かう先と、ぼくが話す言葉の乖離は、もしかしたらこれからますます大きくなっていくのかもしれません。

そうかと思えば、「~なんですよー」と突然敬語みたいなしゃべり方になったりして、いろんな人と接しているんだなと思わせられます。いずれにしても、息子の成長の証なんだと思います。親とは決して同じではない環境で育っている証拠です。複雑ですが、喜ぶべきことなのだと思います。楽しみです。息子は生まれてから毎日ぼくにとっての希望です。

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2018年6月15日 (金)

Unsung Heroes.

D.J.フォンタナ(1931-2018)が亡くなったそうです。エルヴィス・プレスリー(1935-1977)のバンドのドラマーだった人です。

まだ2000年になっていなかったと思うのですが、秦野市で行なわれていた片岡しのぶ先生の翻訳教室に通っていた頃、テキストに使われたキース・リチャーズに関連する記事で、初めてD.J.フォンタナという名前を見ました。それで、持っていたエルヴィスのCDを聴きまくったり、当時はインターネットも使うようになってまだ間もない頃でしたが、D.J.フォンタナやエルヴィス・プレスリー、それにキース・リチャーズとの関係などを調べたり、そんな中で、やはりプレスリーのバンドでギターを弾いていたスコッティ・ムーアとD.J.フォンタナと二人の名義で『All The King's Men』というアルバムをリリースしていることを知り、Amazon.comで買ったのでした(まだAmazon.co.jpはなかったのだと思います)。

『All The King's Men』(1997)は、キース・リチャーズ、ロニー・ウッド、ザ・バンド、ジェフ・ベック、チープ・トリック、ビル・ブラック……といった多彩なゲストを迎えて、全部新曲で制作したアルバムです。

1曲目の「Deuce and a Quarter」(キース・リチャーズ&ザ・バンド)からラストの「Unsung Heroes」(ロン・ウッド&ジェフ・ベック)まで、とてもご機嫌なロックンロール・アルバムで、それぞれすでに名を成したビッグなゲストたちが、敬愛して止まない二人と一緒に演奏する喜びに満ちていることがCDを聴いているだけで伝わってきます。

ロニーとジェフ・ベックが歌う「Unsung Heroes」(無名のヒーローたち)というのは、偉大なエルヴィスの影に隠れて一般には知られた存在ではないけれど、ギタリストとして、またドラマーとしてエルヴィスの音楽をどっしりと支えていた、エルヴィスの音楽を語る上で欠かせない二人のヒーロー、つまりスコッティ・ムーアとD.J.フォンタナのことです。こんな曲を作るロニーとジェフ・ベックのことがそれまで以上に大好きになったものです。

当時、このアルバムを聴きながら松戸から秦野まで通っていたことを覚えています。翻訳を通じて、それまで知らなかった音楽を知ることが少なくありません。現実の世界でも友達とそれぞれが持っているレコードの話をしたり貸し借りをしたりするように、本の中に出てくる人物たちの影響を受けて、聴く音楽の幅が広がったり人生が豊かになったり、泣いたり笑ったりしています。だからD.J.フォンタナが亡くなったというニュースはとても寂しく、感謝の気持ちでいっぱいです。

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2018年6月14日 (木)

楽しく過ごす。

今日は夕方、息子と家の前でなわとびをしました。二週間前になわとびを買って以来、結局今日で3回目か4回目なのですが、息子はぐるぐる回したりぴょんぴょん跳ねたりあいかわらず楽しそうにやっているし、ぼくはだいぶ慣れてきて、息を切らすこともなくひゅんひゅんひゅんと調子よく跳べるようになってきました。

ぼくが跳んでいると、息子は「うわぁ……」と言ってじっと見ていた後で自分もやろうとしています。今はまだ全然できないのですが、何度も「うわぁ……」と言って挑戦しているうちにできるようになってくるのだと思います。なわとびに限らず、そういうものなんだと思います。そのためにも健康第一です。

なわとびの後は久しぶりに息子と一緒にお風呂に入りました。学校で今日から始まったプールのことをいろいろ話してくれました。寒かったけどがんばったとか、県立プールと一緒のシャワーがあって、嫌だったけど先生と一緒に入ったとか、溺れたら先生が助けてくれる? とか、自分がそんな感じで必死だったわりに周りの様子もちゃんと見ていたみたいで、お友達がどうだったとか、今度先生も一緒に海行きたいねとか、楽しかったんだなあと思いました。

毎日楽しく過ごすというのは大事なことだと思います。小さいうちは、苦手なこととか嫌なこととか、苦痛にしか思わなくて一大事のように感じてしまうけれど、大人になればそういうのを乗り越えてこそもっと楽しい時間を過ごせる場合もあるということが分かってくるし、自分の苦手なことを踏まえて対応することを覚えることもできるし、だから息子には、苦手なことも含めて、楽しむことを教えてあげたいと思います。ぼくは息子のおかげで、本当に楽しい毎日を過ごさせてもらっています。

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2018年6月13日 (水)

『深重の海』

先日、津本陽さんが亡くなられたというニュースを見ました。ぼくが高校生の頃に父が読んでいた『下天は夢か』(1989)を、大学生になって読んだのが津本陽さんの作品を読んだ最初でした。歴史が苦手で、歴史小説にも挑戦はするのですが、歴史が分かっていないために感じ取れる面白さに深みが足りないことを当時から自覚していました。でも『下天や夢か』などはまさにそうなのですがタイトルからも壮大なロマンを感じ、読みたい、もっと面白いと感じながら読みたい、と強く思った作家の一人です。

そして今回買ったのは、『深重の海』(1978)です(「じんじゅうのうみ」と読みます)。ぼくの故郷の隣町である太地町の捕鯨をテーマにした作品です。『下天は夢か』を読んでいた頃に、これも読みたいと思いながら読まずじまいに終わり、数年前に井上靖の「補陀落渡海記」や中上健二の『十九歳の地図』、佐藤春夫の『田園の憂鬱』など、故郷に関連する作品を続けて読んでいた時期に、やはり読みたいと思いながらまたしても読まずじまいだったタイトルです。

そして買ったところ、帯に「生きることの本当の意味がわかる小説です。打ちひしがれている人、生きる希望をなくしている人にこそ読んでほしい」とあって、ちょっと読むのを躊躇っています。でも、ぼくは「打ちひしがれている人」にも「生きる希望をなくしている人」にも該当しませんが、「生きることの本当の意味」というのは大学生の頃からずっと頭にあることです。そして実際に、「生きることの本当の意味」を求めていたからこその出会いも、当時ありました。

とか思いながら最初のページを開くと、「たとい罪業は深重なりとも必ず弥陀如来はすくいましますべし」という蓮如上人の言葉が引用されていてちょっと嬉しくなりました。蓮如上人は(これももうずい分と前のことになりますが)五木寛之の『蓮如物語』を読んで以来、実に気になっている人物です。そんな人の有り難い言葉に導かれるがままに読み進めたいところなのですが、最後の「すくいましますべし」の意味を(古文も苦手だったぼくとしては)まずちゃんと理解しないとと思っているところです。たぶん「すくってくださいます」ということでいいのだと思いますが、「すくい・まし・ます・べし」となんかいっぱいくっついています。

とにかく、明治11年に熊野灘であったという巨大鯨と男たちの物語を楽しみにしたいと思います。

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2018年6月12日 (火)

放課後の学校。

今日は夕方になってやっと帰ってきた息子が学校に筆箱を忘れたというので、一緒に取りに行ってきました。担任の先生が教室まで案内してくれました。ぼくは息子の教室に行くのは四月の入学式の時以来でしたが、三人で廊下を歩きながら息子と先生が話している様子や、教室に入って自分の机の中から忘れた筆箱を取り出す様子から、この二か月で息子が学校にも教室にもすっかり馴染んでいることが分かりました。

後ろの壁には、先日の運動会の大玉ころがしを描いた息子のあまりに前衛的な絵が貼ってあって、先生に手伝ってもらいながら息子はどんな気持ちであの楽しかった運動会のことを思い出していたのかなとか、ぼくにとっての本宮小学校や勝浦小学校がそうであるように、息子にとっても小学校の思い出がずっと心に残っていけばいいなと思いました。

ぼくにも覚えがありますが、放課後になってからまた学校に戻って、しかも校舎の中に入って、さらに先生に会うのは、なんかちょっと特別な感じがして、学校を後にする時の息子も楽しそうでした。

規模や地域や時代は当然違っても、小学校で過ごす6年間は誰にとっても大切な毎日なんだなと思いました。息子にも楽しい毎日を過ごさせてあげたいです。

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2018年6月11日 (月)

「九月姫」

『モーム短篇選(上)』に収録されている「九月姫」を読みました。九月姫というのは、シャムの王様の九番目の姫の名前で、一月姫から八月姫まで、八人のお姉さんがいます。姫たちの命名に関して、いろいろと紆余曲折があって、それについてけっこうな分量の説明が冒頭にあるのですが、それが実はその後の展開にほぼ何の関係もないという、もしくは関係のある一点を描くためにこの流れを創り出すなんて、その途方もない発想に驚かされるしかないという、とても斬新なイントロダクションとなっています。さすがモームです。

でもこのおとぎ話の語り始めとして、この部分があるのとないのとでは全然違うと思えます。その後のエピソードに登場する人物の背景の紹介になっているということだと思います。全然知らない人たちの話とは思えなくなっているのです。イントロダクションはもしかしたらそもそもそういう目的があるのかなあと思いました。

たとえばまだ実際に会ったことがない人でも、その人に関する噂を誰かから何か一つでも聞いていれば、そこから無意識のうちになんとなく勝手に想像したり見当をつけたりしているものです。噂に聞いていた人に関する話が本編に入って語られていれば、興味も一段とわいてきます。

そんな実に興味深いイントロダクションの後に、九月姫が飼っていたナイチンゲールをめぐって、八人の姉の入れ知恵のせいで九月姫が大いに悩むことになるという本編が語られるのですが、たいていのおとぎ話でそうであるように、この末娘も疑うことを知らない清らかな心を持っていて、無垢な心は知恵に頼った企みを乗り越えて清らかさを増します。

その経緯の中に、自らの喜びと他人の幸福、自由と芸術、といったことも読み取れます。愛にも芸術にも幸せにも犠牲はつきものなのかもしれません。でもそれを犠牲と呼ぶかどうかで、愛や芸術や幸せの濃度は変わってきそうです。Freedom is just another word for nothing left to lose. です。

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2018年6月10日 (日)

溝掃除。

今日は町内会で近所の溝掃除を行ないました。朝の6時15分から。息子が一番張り切っていました。溝掃除なのでたぶん要らないよと言ったのですが、ほうきとちりとりを持って集合場所に行くと、会長さんの話をけっこうまじめに聞いていました。

それで、やっぱりほうきもちりとりも使う場面はなかったのですが、近所の人たちに「お手伝い、えらいねー」と言われるたびに「ほうき持ってきてた」と自慢のほうきを見せていました。

あさがおのつるを巻きつけるために立てるような細い棒を溝ぶたの隙間に突っ込んで、汚泥がたまっていそうなところを見つけ、そこをジャッキみたいな道具でこじ開けて、かき出し、袋に詰める、という作業の繰り返しでした。

小雨が降る中、一時間半ぐらい作業をして、片づけて、そしてうちは班長だったので、班の皆さんのお家にお茶とお菓子を配りに行く時も、息子はまったく物怖じすることなくピンポンを鳴らしてお茶とお菓子を渡していました。ぼくよりよっぽどしっかりしています。

そんな濃密な早朝の時間を過ごしてもまだ8時過ぎで、それから朝ごはんを食べて、息子は夕ご飯の時間までしっかり遊んでいました。

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2018年6月 9日 (土)

翻訳講座(土曜クラス)24.

今日は「はじめての文芸翻訳講座」(土曜クラス)の第24回の日でした。講座開始前のSEに浜田真理子さんの『NEXT TEARDROP』をかけて、梅雨の晴れ間の爽やかな一日に落ち着いた雰囲気の中、ハリー・ナッシュの狂気の演技、繊細で複雑に歪んだ誠実な人格が惜しみなく披露される場面に取り組みました。

普段は金物屋さんで店員をしている大人しいハリー・ナッシュなのですが、この劇団には欠かせない「本物の俳優」で、ひとたび台本を握ると、台本と演出家が指示するとおりの人物になるのです。変化というより変質です。しかも劇的な。そして今回は『欲望という名の電車』でマーロン・ブランドが演じたスタンリーの役なので、オーディションでの本読みの時点で、さっそく普段のハリーからは考えられない猥雑な乱暴者に見事に変身します。その迫真の演技に圧倒されて、一緒に台本を読む者までその気になってしまうぐらい、存在感の塊りと化すのです。

哀しい過去が影響している可能性については前回の日記に書いたとおりですが、それでもそれを活かして、あるいはそういう影響があろうがなかろうが、現在の自分が圧倒的に輝ける芝居という活躍の場を見つけたことは、ハリー・ナッシュにとっての幸運であり救いだと思います。出番が終わって台本を置くと、またうだつの上がらない普段のハリーに戻るのですが、それでいいのだと思えます。うだつの上がらないハリーを見ても、町の人は舞台の上のハリーを知っているのです。

そんなハリーを、どういうつもりでカート・ヴォネガットは生み出したのだろう、きっと愛しく思っているんだろうなあと思います。作品は作品として作者とは切り離して読みたいと思っているのですが、カート・ヴォネガットの作品を読んでいると、ヴォネガットと作品の距離、その距離に詰まった愛情をどうしても感じます。書いてしまった以上自分にはもうどうすることもできないけれど、読者の皆さんにかわいがってもらえよ、がんばれよ、という愛情です。勝手な想像ですが。

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2018年6月 8日 (金)

『NEXT TEARDROP』

浜田真理子さんのニューアルバム『NEXT TEARDROP』を聴いています。雨の日に、雨の音と一緒に聴くのにぴったりの素敵なアルバムです。と思いながら聴いていたのですが、気がつくと雨があがって明るい陽が射し込んでいて、それでもやっぱりぴったりの素敵なアルバムです。

喜びも哀しみも歌にして、他の人が作った歌も含めて、浜田さんにとっては歌うことが確かめること、伝えること、次に進むこと、生きることなのかなと思いました。だからこんなに、そっと、それでいて力強く、そこで歌っていてくれるのだと思います。たとえ伝えるべき言葉がさよならだとしても。

そしてその時に、ピアノがとても心強い存在のように感じます。シンプルで誠実な言葉と、微笑む愛を届ける深い声と、変幻自在の音が合わさって、とても情感豊かに広がり深まり静まり返ります。

個人的な体験や想いを込めたと思える曲も普遍性をもって胸に響き、聴いていて自由に思いを馳せることができる一方で、前作に続いて浜田さんの比較的最近のものと思われる懐かしい写真がジャケットに使われていることを考えると、それでもやはりパーソナルなところに留めておきたい大事な一枚なんだろうなと想像します。

心の奥のほうでざわつく気持ちをそっと手のひらに乗せてみたところそれが愛だったとしたら、次の涙はいつまでもずっとこぼさずにすみそうです。

パッ、パパール、パッ、パッ、プルルラ♪ 20周年おめでとうございます。

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2018年6月 7日 (木)

『スラップスティック』

カート・ヴォネガットの『スラップスティック』を読みました。何年かぶりの再読になりますが、今回もよく分かったとは言えませんでした。でも、最高におもしろかったです。無関心でコーティングした無機質な形式のすぐ裏に、とても温かな血がどくどくと流れていました。

最初に邦訳された時に副題のようにくっついていたらしい「もう孤独じゃない!」というスローガンが、大きなテーマの一つだと思います。ヴォネガット本人を大きく投影したウィルバー・スウェインという名の老人が主人公で、二人揃うと一人の天才が現れるという双子の姉も登場し、その天才による「人工的な拡大家族」という発想で、人々を悩ませ続ける「孤独」を退治しようとするのです。要するに、ぶざまな大国で安心して暮らすために、ありったけの身内、考え得る限りの家族意識を作り出そうとするのです。

この老人とその姉は小さい頃から白痴と思われていたために隔離されて育てられるのですが、二人が一定の条件下で一緒になると一人の天才が現れるという特殊な能力を持っていることに本人たちだけが気づくという独特の哀しみの中で、誰にも哀しみを味わいさせたくないという無意識の気持ちを気づけば行動に移しているような、しかもそれが突拍子もないアイデアの奔流の中にちらりちらりと顔をのぞかせるような、SF風でもあり牧歌的でもある、マジカルな話でした。

それにしても、こんなに面白く読めたのに、結局やっぱりよく分かりませんでした。カート・ヴォネガットの頭のなかはどうなっているのかと思います。とても複雑で、緻密で、だけどおそらくとても明快で、筋道は辿るというより一瞬のひらめきのうちに完結しているような気がします。一度や二度読んだだけでは、ぼくにはとても分かりそうにありません。でも、この伝わってくる感じや読んで嬉しくなる気持ちの理由をもっと詳しく知りたいので、しばらくカート・ヴォネガットを読もうと思います。

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2018年6月 6日 (水)

よく降る。

雨がよく降ります。よう降るよー、よう降るねー、とみんなが言うから、ほめられたと思った雨は気をよくしてさらによく降るのだと、伊達のばあちゃんは言っていたそうです。ずい分と前に母から聞いたのですが、ぼくはこの話が大大好きで、雨が降るたびに思い出します。

いろんなきっかけでみんなそれぞれ思うことがあると思うのですが、ぼくの場合、「健気さ」は一つの大きなキーワードです。「健気」というのは、たとえば広辞苑では「(子供など弱い者が)けんめいに努めるさま」と定義されているように、横柄ではないし、適当でもないし、調子にも乗っていないし、過信もしていないし、誤魔化そうともしていないし、ずるいことをしようともしていないし、諦めるつもりもなさそうだし、周りの目を気にしているようには思えないし、余計なことは何一つ考えずに、目的の達成だけを目指しています。

降る雨を健気に思うと、雨音もいじらしく思えるし、激しさを増すと何か気に入らないことがあったのかなと心配になるし、いろんなことがいとおしくなってきます。ばあちゃんもそうだったのかなと思いながら。

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2018年6月 5日 (火)

翻訳講座(火曜クラス)24.

今日は「はじめての文芸翻訳講座」(火曜クラス)の第24回の日でした。話の内容が少しずつ芝居やそのためのオーディションなど具体的になってきて、冒頭の人物紹介を兼ねた主役たちの登場に始まって、いつの間にか物語に引き込まれていることに気づきます。

翻訳していて、いったん思い込んでしまった読み方はその間違いの可能性に気づくのが大変です。どれだけ慎重に細かいところまで気を配りながら読み返したり推敲したりしているつもりでも、どこかでやっぱり、気を配りきれていない箇所があるのだと思います。心のどこかで、なんかちょっとおかしいのかなと感じていても、気づいているはずのその間違いに合わせて周辺を無理やり調整して理解しようとしてしまうこともあります。

でも一方で、どれだけ読んでも分からなかったところが、次の日に読むと、何が分からなかったのかが分からないぐらい自然に理解できたり、ふっと気づいたりすることもあります。

自分や誰かの勘違いや思い込みに対して大らかでありたいと思います。

野球をしていた頃は、練習をすればするほど上手になって強くなれることを知りました。マラソンをしていた頃は、どれだけ練習したつもりでも自分以上に練習している人がいて、自分よりも速い人が当然いて、一方で自分のほうが速い人もやはりいて、ペースはそれぞれなのだから、手を抜かなかったと自分で思えるのであれば、レースに負けて極端に悔しがる必要も、誰かに勝って大喜びする理由もないということを学びました。謙虚になるということだと思っています。そして翻訳をするようになって、勘違いや思い込みを失くす大変さと、それを指摘し正してもらえることの有り難みを痛感しています。

翻訳はこれまでの野球やマラソン同様、ぼくにとって人生の勉強でもあるみたいです。目的と目標を明確にもって、いつまでも変わらず励み続ける対象です。

今日の課題範囲では、ハリー・ナッシュのつらい過去が明らかになり、それを踏まえて、ハリー・ナッシュが舞台への出演依頼を受けた際にいつも訊ねる「Who am I this time?」という確認の質問が、考えてみると少し悲しいセリフだとさらりと書かれています。ぼくはこの部分が大好きです。これだけで、カート・ヴォネガット(1922年11月11日 - 2007年4月11日)のことをもっと深く知りたくなります。

誰かの言動の裏や奥にどういう事情や感情があるのかということに敏感でありたいと思います。

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2018年6月 4日 (月)

シェイクスピア。

『リチャード三世』を読み始めました。今回も松岡和子さん訳のちくま文庫です。シェイクスピアを初めてちゃんと読んだのは、二度目の大学時代にシェイクスピアの授業を取った時でした。『ペリクリーズ』という地味な作品で、授業の様子も作品の内容もほとんど覚えていないのですが、

「もしあなたが名誉ある家柄のお生まれなら、その証をいまお見せください
もし名誉ある地位を与えられたかたなら、
あなたを尊敬している人たちの心を裏切らないでください」

というセリフが気に入って、いつも持ち歩いていたノートにメモしたことを覚えています。一年かけてそれだけの成果というのは寂しい限りですが、授業でも取らない限り、なかなかシェイクスピアを読み始めるのは難しかったかもしれないと思うと、それだけでも有意義な一年でした。

授業では結局(どういう事情だったか)第一幕第二場までしか進まなかったのですが、レポートを書くために自分でちゃんと最後まで読んで、続いて同じ「ロマンス劇」に分類される「シンベリン」を今度は翻訳(小田島雄志訳、白水Uブックス)で読み、それから『ヴェニスの商人』、『ジュリアス・シーザー』、『オセロー』を白水Uブックスで読みました。

そして比較的最近になって、やはり白水Uブックスで『リア王』と『テンペスト』を読み、『マクベス』は新潮文庫の福田恆存さん訳、『ロミオとジュリエット』を松岡和子さん訳のちくま文庫で読んで、今回の『リチャード三世』です。

面白いなと思いながら読めるようになったのは、『リア王』あたりからです。それまでは授業で読まないといけないからとか、翻訳をするうえでシェイクスピアは読んでおかないととか、少し邪(よこしま)な気持ちが動機につながっていたことは否めません。それが最近になってようやく、というのはそれだけの紆余曲折を経てということだと思いますが、やっとシェイクスピアの作品そのものが面白いことに気づき、本来の読書として余裕をもって楽しめるようになってきました。

それなのに、今回の『リチャード三世』はどうやら登場人物がものすごく多いみたいで、ちょっとびびっています。

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