2017年3月29日 (水)

申し分なくかわいい。

息子が、B.B.キング(1925-2015)の『Completely Well』(1969)のジャケットを見て、「かわいいね」と言っていました。

大好きな友達ばかりが集まって、もう楽しくて楽しくてしょうがないパーティーみたいなアルバムです。そんな多幸感や充足感が、この「かわいい」表情となって表われているのかなと思います。目指します。

840

| | コメント (0)

2017年3月28日 (火)

「Are You Gonna Be My Girl」

音読のしすぎで喉がちょっといがいがしてきたので何度も咳払いをしているうちに、JETの"Are You Gonna Be My Girl"を思い出し、今日は一日中、『Get Born』を大音量で聴いていました。

歌い出す前に咳払いをするのです。しらこいなーと思うのですが、スカした感じがカッコいいです。別に喉がいがいがいしているわけではなく、カッコつけのための咳払いだということは分かっているし、カッコつけのための咳払いはJETの発明でもないのに、それでもカッコいいのです。

この曲が流行ったのは2003年です。ついこの間だったような気がしますが、もう14年も前です。びっくりです。黄色い悪魔だとか言って、タワーレコードに足繁く通っては長時間試聴&複数枚購入を繰り返していた頃です。

839

| | コメント (0)

2017年3月27日 (月)

「失われた三時間」

スコット・フィッツジェラルドの短編「失われた三時間」を読みました。原題は"Three Hours Between Planes"で、飛行機を乗り継ぐ三時間の間の出来事を描いたものです。

乗り継ぎのために降りた町に、二十年前に恋していた女性が住んでいるはずなのです。電話帳で連絡先を調べ、なんとか本人に辿り着き、そして実際に会いに行きます。最初はぎこちなかった会話も、話すうちに向こうも思い出してくれたようで、思い出してくれたどころか、向こうも実は好きだったと言い出して……、といったストーリーです。

こっちの都合と向こうの都合、こっちの事情と向こうの事情、みたいなものが最初から同じ次元やテンションで噛み合うはずもなく、それでも次第に打ち解け合って、分かり合って、いたかに見えたのも束の間、そんな運命のような出会いはどんなレベルにおいてもなかなかあるものではありません。

「俺はこの飛行機を乗り継ぐたった三時間のあいだに実に多くのものを失ってしまったようだ。でも、それがどうしたというんだ? 俺のこれからの人生なんて、結局は何もかもを切り捨てていくための長い道のりにすぎないじゃないか? どうせそれだけのことなんだ、きっと……。」という主人公の独白は、一見ドライなようでいて、とてもウェットに感じられます。失ってしまったように感じたかもしれない多くのものなんて、実は最初から手にしてなどいなかったんじゃないかと思います。もしくは、一時的に自分の上を過ぎていく感情といったものもあると思います。すべて、自由と引き換えにしないと手に入らないものです。

838

| | コメント (0)

2017年3月26日 (日)

「形容詞『おかし』について」

ちくま文学の森シリーズの第4巻『おかしい話』の解説として収録されている、井上ひさしの「形容詞『おかし』について 岡新助講師の最後の講義 解説にかえて」を読みました。

千曲(ちくま)女子短期大学国文科の講師、岡新助(おかしんすけ)が、このたび学長の新任と機を同じくして退職することになり、その最後の講義を行なうという話です。

いつの頃からか「あいつ、少し頭がをかしいんじゃないのか」と言われ始めたことに発奮し、枕草子や源氏物語などの頃は「をかし」というのはたいへんな褒め言葉であったはずなのに、現在では「滑稽だ、普通ではない、何か変である」という意味で使われているようになったのは何故か、その移り変わりの起源を突き止めるために一時期は寝食を忘れて研究に打ち込んだ老人が告白するおかしな話です。

新任した学長とは実は大学時代からの親友で、同じ主任教授の下で民話採集に熱中し、主任教授のお嬢さんに恋をし……、といった顛末なども語られて、思わずぷぷぷと笑ってしまう「最終講義」は、まさに『おかしい話』のラストを飾るにふさわしいおかしさです。主張しつつでしゃばらないスタンスが絶妙です。

831

| | コメント (0)

2017年3月25日 (土)

デハニ50形。

今日も朝から一畑電車に乗って、出雲大社前駅で一般公開されているデハニ50形を満喫してきました。ここ数か月は毎週のように行っています。ぼくは、古い木のにおいが本宮小学校の木造校舎や当時のことを思い出して懐かしくなるのでぼんやりとシートに座っていることが多いのですが、息子は本物の電車のいろんなところをじっくり見たり触ったりできることがとても楽しいみたいです。

通路を何度も往復しながら、運転席に入ってはハンドルをがちんがちんと回したり、運転席に入る際にくるりと向き直って深々とお辞儀をして「車掌さんの真似」をしたり、隣りのホームに入ってきたしまねっこ電車に手を振ったり、窓の外を見ているのかと思っていたら「今日は窓きれいだね」と言ってみたり、ぼくにもハンドルをがちんがちんと回させたり、深々と車掌さんの真似をさせたり、他のお客さんが来たらパパの横に来てちんまりと座っていたり、もう何度も来ているのに毎回本当に楽しそうです。

息子はたとえば今日乗った電車のことなら「青い電車」とか「一畑電車」とかじゃなくて「5000系」とかいっちょまえな呼び方をする一方で、「デハニ」という名称は覚えていないのかどういうつもりなのか、体の横で両手をしゅっしゅっぽっぽとやりながら、「今日これ行く?」とか言うのです。体の横で両手をしゅっしゅっぽっぽとやりながら、「今日これ行ったね」とか言うのです。何度かライブも体験してうちでもヘヴィローテーションしていたことのある「よしととひうた」さんの「デハニ」のYouTube映像でのよしとさんの真似をしているのです。

下の写真はハンドルをがちんがちんと回しているところですが、運転席に入る前にくるりと振り返って深々とお辞儀をしたところで、頭に両手を当ててとてもびっくりしたような顔つきになり、「帽子ないっ!」と言っていました。いつも家では帽子(普通のベースボールキャップ)をかぶって車掌さんの真似をしているのです。

837

| | コメント (0)

2017年3月24日 (金)

「コーヒー・サイフォン」

夕方、息子を保育園に迎えに行く時間帯に聴く古井戸の「コーヒー・サイフォン」が沁みてたまりません。

色褪せそうで鮮明な懐かしさ、いつまでも瑞々しい記憶、照れ隠し。人の目を気にして生きていくつもりなどまるでなさそうな純真。そんなイメージを思い浮かべているところに、「煙草を吸い過ぎた窓に/もう陽が落ちてく/今日も」と歌われると、ぐっときます。

古井戸の『ぽえじー』(1973)、仲井戸"CHABO"麗市の『Chabo Solo Live 1998』(1998)、『Works 古井戸セルフカバー』(2000)、忌野清志郎 & Nice Middle with New Blue Day Horns plus 仲井戸"CHABO"麗市の『忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館 2枚組ライブアルバム』(2008)、仲井戸"CHABO"麗市の『I STAND ALONE』(2010)。

とても楽しかった2008年の日本武道館での印象があまりに強くて、今ではどの時代のテイクを聴いても曲の終わりには「清志郎ーっ!」というチャボさんの声が耳の奥に甦ります。

そして2010年には、それまでにもライブ中のトークやいろんなインタビューなどで読んだり聞いたりしてきた「コーヒー・サイフォン」誕生時のエピソードが、オーティスの「煙草とコーヒー」をBGMに改めてチャボさんの朗読で語られます。その声は今も、いつ聴いても、耳にした瞬間に全身に沁みわたり、優しい気持ちになれる救いの神様の声のようです。

古井戸って、「古いレコード」の略じゃないのかとさえ思います。

836

| | コメント (0)

2017年3月23日 (木)

「朝めし」

『スタインベック短編集』に収録されている「朝めし」を読みました。

気持ちのいい朝、気持ちのいい男たち、気持ちのいい会話、気持ちのいい食べっぷり、気持ちのいい時間、気持ちのいい出会いと、そして別れのスケッチ、といったとても気持ちのいい掌編でした。

夜が明けて間もなく、谷間の田舎道を歩いていた男が、テントの前で火を焚く若い女を見かけます。テントから夫とその父親らしき二人も出てきて、朝めしが用意されるのですが、夜が明けていく様子と、テントの三人とそこを通りかかった男との心の交流の深まっていく様子がとても素朴で、とても清々しいのです。

三人は休暇でテントを張っているのではなく、綿花畑で働くためにこの地にやって来たことが分かります。決して心も体も休まる日々ではないはずですが、それでも働きに出かける前の朝のひと時をとても清々しく過ごしていて、通りかかっただけの男にも「よく訪ねてくだすった」といって清々しく接し、ひと時を共に過ごします。

よっぽど楽しい経験だったようで、冒頭の一パラグラフを使って「こうしたことが、私を、楽しさでいっぱいにしてくれるのである。」という一文で始まる「前置き」が話されます。この気持ちもよく分かるなあ、と思います。でもぼくは、何か話すつもりで本題に入る前にこうした前置きをしゃべっている間に、何を話そうとしていたのだったか忘れてしまい、もったいぶったようなことをするんじゃなかったなあと思うことがたまにありますとよく言っています。だからこの四行で構成された冒頭の一パラグラフを読んでいる間も、早く本題に入らないと忘れてしまうんじゃないかとちょっとどきどきしていました。

タイトルも含めて、"breakfast"が「朝めし」と訳されているのも見過ごせません。ぼくはおそらくこれまで一度も「朝めし」と口にしたことがないはずです。でもここでは「朝めし」でなければいけないと思います。「朝食」や「朝ご飯」では決してありません。だからぼくは自分が「朝めし」と言ったことがないというような性格や個人的な事情を超えて、話に入り込んでいかないといけないのです。翻訳をするのであればということですが。そしてもちろん、そんなことは心配するまでもなく入り込んでいくはずの清々しさです。

835

| | コメント (0)

2017年3月22日 (水)

心の欠片。

非道の限りを尽くし、世紀末に荒れ狂う世界をその手に収めようとしていたかに見えたカイオウの体は傷だらけでした。圧倒的な強さを誇るカイオウの全身に刻まれた無数の傷は、自らの手によるものでした。心を一つ殺すたびに、その証を自らの拳で肉体に刻みつけていたのです。心を殺してまで成し遂げたかった悲願とは、実弟である覇王ラオウや、愛を刻みつけることで真の強さを身につけた伝承者ケンシロウの願いと異なるものではありませんでした。

今日、刻みつけた10個の傷に涙を沁み込ませたのは、それ以上に守りたいものと手にしたいものがあるからです。なんとしてでも。だから心の欠片みたいなもんぐらい、10個でも20個でも大したことではありません。その代り、その分だけ必ず強くなって、着々と準備を進めるだけです。空の下に伸びる道を道が続く限りどこまでも歩き続けるだけです。すたすたとね。そしてぎゅっと歯を食いしばっていれば、傷みたいなもんはそのうち塞がるはずです。

やる気しか湧いてこん。

"And each time I tell myself that well I think I've had enough,
But I'm going to show you, baby, that a (wo)man can be tough."

834

| | コメント (0)

2017年3月21日 (火)

"Can't Bust 'Em"

年末にLeeのジーパンを買った時に、デニム生地のカレンダーをもらったので、壁に貼っています。でっかく書いてある「CAN'T BUST'EM」というのは、1948年にLeeの傘下に入ったカリフォルニア発の老舗ワークウェアブランドの名前です。"Can't bust'em"、破ることはできない。絶対に破れないという自信をブランド名として表明しているのです。かっちょいい。

ワークウェアとしてのジーンズの魅力として絶対必要な要素は、耐久性だったんだと思います。二頭の馬に引っ張られている有名なLevi'sの「ツーホース・マーク」も、タフなジーンズを表わしています。リーバイスのキャッチコピーでは、ぼくが大学生の頃に「Trend is back to quality.」というのがあって、それも大好きでした。

大事なことさえしっかり守っていれば、後のことはだいたい大丈夫です。

833

| | コメント (0)

2017年3月20日 (月)

「ゾッとしたくて旅に出た若者の話」

グリム兄弟の「ゾッとしたくて旅に出た若者の話」(池内紀 訳)を読みました。利口で抜け目のない兄が怖がりで、よく「ゾッとする」と口にしていたところ、出来も要領も悪い弟が、「ゾッとするなどとよくいうが、いったい、どういうことなんだろう。おいらは一度も、ゾッとしたためしがない。どうやら、おいらなんぞには、わからない芸当らしい」と思うのです。

そんな弟が、父から「兄を見習ってお前も少しは自分で稼げるようになれ」と言われ、弟はまずはゾッとすることを習ってみたいと思うようになります。弟の「ゾッとするための旅」の始まりです。

周囲の意地悪に気づかず、素直で健気でひたむきな弟なのですが、「ゾッとしてみたい。ゾッとさせてほしいじゃないか」と口癖のように呟くところなどは実に野心家です。ゾッとするということの意味が分からず、でも兄や父が「ゾッとする」とよく言っているのを聞いて自分もゾッとしてみたい、一人前になるためにもゾッとできるようにならないと、と願う弟の気持ちに、本当であればどう接すればいいのかなと思います。弟は少し人より遅れて成長の過程にあり、また肝の据わったところもあって、それでゾッとすることを知らないのですが、それを知ったところでどうなるわけでもないし、だけど本人はどうやら本気でゾッとしてみたいと思っているのです。

弟はそれから、読んでいるだけでもかなりゾッとするような場面に何度も出くわすのですが、そのたびに気の優しいところやせっかちなところや呑気な性格を発揮して、まるで何事もなかったかのように旅を続けます。「ゾッとしてみたい。ゾッとさせてほしいじゃないか」と呟きながら。

「おかしい話」ではありますが、面白おかしい話ではなく、途中で一度だけ登場した宿屋のおかみさんのように、少し優しい人であれば弟の目がとてもきれいなことに気づきます。きれいな目と無邪気な心は、何物にも代えられない宝物です。持っている人は大事にしないと。

831

| | コメント (0)

2017年3月19日 (日)

休日満喫。

今日は朝からお弁当を持って、出雲市にある浜山公園に行ってきました。息子が「はま公園」と呼ぶ大好きな公園の一つで、先日から行きたい行きたい、今度行く? 来週行く? あさって? また今度? とよっぽど行きたかったみたいなのです。

広い敷地内にいろんな遊具があって、息子はそのどれもこれもが大好きで、遊べるし、走り回れるし、敷物を敷けばごろんとなれるし、だけど息子はごろんとなるつもりなどまるでなく、めいっぱい遊びました。「めいっぱい、ってどれぐらい?」という疑問をお持ちの方がいらっしゃったら、今日の息子の様子を見てもらえばいいんじゃないかと思うぐらいです。

それでも息子はまだまだ遊び足りなかったみたいですが、夕方に妻が松江で用があったので後ろ髪を引っ張って帰り、その間、ぼくと息子は家でのんびり、したかったのですが、したかったのはぼくだけだったみたいで、息子は毎日寝る1秒前まで元気いっぱいなので、そのまま「どんどん」に行きました。「どんどん」というのはもちろん田和山史跡公園のことです。ここも息子がもっと小さい頃からよく行くところで、子供にしてみればそれなりの高さのある丘の上までそれなりに急な階段を「どーんどーんどーん……」と言いながら登るので、「どんどん」です。

まるで疲れも見せずにあっという間に登ってしまうと、頂上でおにぎりを食べて、あそこが本屋さんで、あそこが保育園で、あれが宍道湖で、あれは……バイクっ! きゅー、きゅー、しゃっ! バスーっ! バスーっ! と眼下の道路をミニカーみたいな車が次々と走っていくのを眺めてひとしきり大喜びした後で、今度はイオン松江店でママと合流して大大好きなうどんを食べて、朝から晩まで休日を満喫しました(「満喫る」と書けば確か「くたびれる」と読んでもよかったんじゃないかなと思いませんか?)。息子は明日も休みなんですって。

832
↑これは「どんどん」から宍道湖方面を眺めたものです。

| | コメント (0)

2017年3月18日 (土)

「大力物語」

菊池寛の「大力物語」を読みました。

昔、こんなに力の強い女の人がいました、というエピソードが四つと、ついでに、ということで力自慢の男のエピソードも二つ紹介されています。越前の国で無双の強者と言われた男が朝廷で催される相撲の節会に召され、道中、女にちょっかいを出そうとしたところ、逆にその手を摑まれて放してもらえずそのまま女の家まで連れて行かれたとか、ある年、水争いがあって水の流れをせき止められた女が、人足が百人がかりでやっと動かせるような大きな石を一人で運んで自分の田んぼに水が流れ込むようにしたとか、夫に浮気をされたので夫の腰を両足でぐっとはさんで泡を吹いて気絶させたとか、そんな話です。

で?

となりそうなところですが、そんな話ばかりいくつも聞かされると、可笑しさがちょっとずつ積もって、なんか笑顔になれます。別に何にもいい話ではないし、読んだからといって誰かに話したくなるようなおもしろエピソードでもないし、でもこういう話をされると、たとえばその場に刺々しさとか緊張感とか遠慮といった余計な雰囲気があれば、それは確実にほぐれると思います。

最後に「いずれも誇張に違いないが・・・」とあるように、そういう断り書きがなくても誇張に違いないと分かるぐらい、どれもこれも大げさな力自慢エピソードなのですが、話に尾ひれがついて広まっていったり、負けじと自分も自慢したくなったりするのは、昔も今もしょうがないことなのかなという気がします。あんまり目くじらを立てたりせず、浮かぶがままの笑顔を浮かべておけばいいのだと思います。

ところでこれは「だいりきものがたり」と読んでいいのかどうか、自信がありません。

831

| | コメント (0)

2017年3月17日 (金)

「ぼくがとぶ」

佐々木マキさんの絵本『ぼくがとぶ』を読みました。

以前、『ラジオ・フライヤー』という、とてもヒューマンでドリーミーで、だけどそれはどうしようもなく粗暴な原因が根底にあったからという、とても悲しい、ぼくの大好きな映画があったのですが、それを思い出しました。でもこの『ぼくがとぶ』にはそういう悲しい要素がまったくなく、だけどちょっと男の子の表情がユニークな、「イノセントなラジオ・フライヤー」といった感じの絵本です。

男の子の目の奥にひろがる宇宙に吸い込まれそうになります。目が多くを語り伝えることができるのは、現実の世界もフィクションの世界も同じなのかなと思います。

男の子はとうさんにもかあさんにも知られず(というにはあまりに大胆に)庭で飛行機を自作して、「とぶんだ ぶるるる」と言って空を飛ぼうとしているのです。ニワトリが飼われて、草原が広がって、低い山に囲まれて、風車が回って、街を流れる川に橋が架かって、そういう牧歌的な景色の中で男の子は飛行機を自作し、失敗しては作り直し、空を飛ぼうとするのです。

やがて砂漠を超え、お城の上空を飛び、星々の中を、大きな氷の上を飛んで行きつく先が、驚いたというかずっこけたというか、佐々木マキさんの他の作品の中でも時々見かけるキャラクターがたくさんいました。ほんとにたくさん。なんかおかしくて、男の子の表情もいいし、決してナンセンスではなく、どこまでもイノセントな世界です。いいなあ。

830

| | コメント (0)

2017年3月16日 (木)

真向法。

昨日の山陰中央新報に、「真向法(まっこうほう)」という体操が健康にいいとありました。大学を出て社会人になったばかりの頃、すでに長い腰痛歴を誇っていたぼくは、隣りの部署の課長にまさにこれを教えてもらって実践していました。

新聞でも図解入りで丁寧に説明されていましたが、足を伸ばしたり曲げたり開いたりした姿勢で座り、骨盤を意識しながら上体を前に倒したり、元に戻したり、後ろ向きに倒れたり、といったことを呼吸を整えつつ行なうのです。

それをぼくはどこに向かう途中だったのか、長堀橋から堺筋を北に向かって走るタクシーの中で教わりました。後部座席にその課長とぼくと先輩の三人が座っていて(もちろんぼくは真ん中)、助手席にぼくの同期社員が座っていたのですが、課長も誰かに教えてもらって始めたばかりだとかで、えらい熱心に、実際に足を開こうとしてみたり、上体を前に倒したり、後ろ向きに倒れようとしてみたりしながら、もちろん手の動きもつけて、それまでの自分の腰痛の具合や、真向法を始めてからの感触などを交えつつ、解説してくれるのです。狭い車内で。後部座席に三人座ってとても狭いのに。

結局次の日だったか次の週末だったかに真向法の本を買ったのは、狭い車内で聞いた説明だけではやり方がよく分からず、だけどなんせ腰にええんやろな、ということは熱烈に伝わってきたからです。

一緒にテニスをしたり、ご自宅に招いていただいたりしたことも合わせて久しぶりに思い出しました。

829

| | コメント (0)

2017年3月15日 (水)

『マザー・グース』と「Golden Slumbers」

講談社文庫から出ている『マザー・グース』(谷川俊太郎・訳、和田誠・絵、平野敬一・監修、全4巻)を読んでいます。

それが「マザー・グース」と呼ばれる童謡集に収められているものだとも知らずに知っているキャラクターやストーリー、エピソードがありますが、そういうところに意識的でありたい(要するに引用元として知っておきたい)と思って読み始めたのですが、このシリーズは巻末に原詩と簡単な解説もついていて、とても興味深く読めます。面白いです。

「Golden Slumbers」も出てきました。もともとはイギリスの劇作家トマス・デッカーの作中に出てきた子守唄だということはどこかで読んだことがありましたが、もちろんよく知っているのはビートルズの『アビー・ロード』に収録されているメドレーです。

巻末の原詩を見ていて、ポールの歌う「ゴールデン・スランバー」と異なる部分を発見しましたよ。

"Golden slumbers kiss your eyes"(マザー・グース)
"Golden slumbers fill your eyes"(ビートルズ)

"Sleep, pretty wanton; do not cry"(マザー・グース)
"Sleep, pretty darling, do not cry"(ビートルズ)

の二か所です。

「(黄金の眠りが)きみの目にキスをする(kiss your eyes)」と「きみの目に広がる(fill your eyes)」とでは子守唄として思い浮かべるイメージが異なるし、おやすみと言って「かわいいやんちゃ坊主(wanton)を寝かしつけるのと「いとしいきみ(darling)」に囁くのとでは全体の印象が変わってくるような気がします。でもこのメドレー全体を聴くと、darlingも、続く「Carry That Weight」のBoyも、「いとしいきみ」というよりは「かわいいやんちゃ坊主」に近いのか、とか、でも聴いていると、もっと深くて大きな広がりを感じるような気もするし、今更ながらいろいろ何にも分からず聴いていたんだなと思い知らされました(こういうことに気づきたくて読み始めたので、さっそく大成功です)。

谷川俊太郎さんは"golden slumbers"を「しあわせなねむり」と訳されていました。「しあわせなねむり」ってとっても幸せそうでいいなあと思います。息子も隣りの部屋でしあわせなねむりに就いているかなあ。うちでは「ええ夢見いもて寝なあよ」と言って寝かせています。

↓このトリビュート・パフォーマンスは最高です。会場全体が幸せに包まれています。

828

| | コメント (0)

2017年3月14日 (火)

「もうひとつだけ」

レイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』の最終話「もうひとつだけ」を読みました。

その一つ前の表題作は、語られる愛のエピソードも、語る男の態度も、聞いている友たちの姿勢も、関係も、それなりにすべてがヘヴィで、でもすべてのシーンで愛について語っていて、そんなシリアスでぐっと読み応えのあるそこそこ長い話で本編を終了した後のアンコールのような、ビートルズやRCサクセションが時々アルバムの中に紛れ込ませている、聴いている間はよく分からないなーとしか思えないのだけれど聴き終えてからじわじわと気になってくる小曲のような、そんな一篇がこの「もうひとつだけ」です。

がちゃがちゃと騒々しい時間のなかで、どうしようもない夫が妻子と口論になってしまい、でもたぶん実はもうさっきから冷静になっているんだろうなと思えるのですが、騒ぎ出してしまった勢いを止めることができず、最後にタイトルにも関係してくる捨て台詞を吐こうとして、これは読者を笑わせようとしてのギャグなのか、それとも瀬戸際まで追い詰められた男の切迫した心境の表れなのか、といったシーンで幕を閉じます。

色んな設定やテーマや登場人物が展開する物語をここまで読んできて、最後の最後がこれか、と思います。なんかおかしくて、そういう意味でもやっぱりこれはアンコールのアンコール、もしくはボーナストラックのような意味合いを持つ最後の一篇だったのかなと思います。いずれにしても、これがあるのとないのとでは、この『愛について語るときに我々の語ること』といった気障(きざ)なタイトルがついた短編集の印象はずい分と変わってくるはずです。あってよかったです。

827

| | コメント (0)

2017年3月13日 (月)

続・庭掃除。

春の足音とともに、やつらの足音まで聞こえてきそうで、慌てて妻と二人で軍手をはめ、高枝切り鋏と刈込鋏を手に家を飛び出し、裏庭で伸び放題だった木や草やいろんなものをばっさばっさと切り倒しました。

暖かくなる前にと思って、十二月と一月に何度か同じように庭の掃除をしましたが、その続きです。裏の庭は土と砂利の上にいつのものなのかからっからに乾いてぱりっぱりになった落ち葉が敷き詰められていて、そこに先日は大雪が降り積もっていたわけです。幾層にもなった裏庭の一番下のずっと奥の暗いところで人知れず蠢きながら、春の到来を待っているやつらがいるんだなあ、早くしないとなあ、とずっと気になっていたのです。

もぞもぞと出てきたところ、地表が意外とすっきりしていれば、あれ? 思てたとこと違うー、となって、どこかに行ってしまうと思うんです。身を隠す落ち葉や枯れ枝や倒木がなければ外敵に狙われる危険も増すだろうから、いつまでもぐずぐずしていないと思うんです。きっとどこかに行ってくれると思うんです。ぼくたちもいくら苦手とは言え、あるいはとても苦手だからこそ、不要な殺生はしたくないし、できないし、目を背けるだけだし、背けたほうにもいるかもしれないし、だから、ここはあんまり快適ではないですよ、ということを伝えたくて、すっきりさせたいのです。

今日のペースだとあと3~5回は庭掃除の時間を取らないといけないのですが、いよいよ暖かくなってきたので時間との勝負です。

826
※写真はイメージです。

| | コメント (0)

2017年3月12日 (日)

しまねっこ。

毎週乗っていると、こんなところにデザインされているしまねっこも見逃しません。確認も面白いけれど、発見はもっと面白いと思います。

825

| | コメント (0)

2017年3月11日 (土)

ロバート・ジェームズ・ウォラー!

ロバート・ジェームズ・ウォラーさんが亡くなったそうです。『マディソン郡の橋』(1992)が有名ですが、"Old Songs in a New Cafe"(邦題『一本の道さえあれば・・・』)として過去のエッセイをまとめたものや、それに何と言っても『ボーダー・ミュージック』(1995)です。

二十年ぐらい前、マラソンのために滞在していたホノルルの書店でタイトルに魅かれて買ったのが"Border Music"でした。帰ってきて村松潔さん訳の『ボーダー・ミュージック』を買って貪り読み、それから"Old Songs in a New Cafe"を貪り読み、『マディソン郡の橋』も貪り読み、ホノルルに行くと本屋さんの「W」のコーナーをチェックして、毎日がロバート・ジェームズ・ウォラーを中心に回っていた時期がありました。2002年には『マディソン郡の橋 終楽章』というのも出ました。

『ボーダー・ミュージック』の第一章には、

 「1986年、ミネソタ北部――彼らのなんと自由だったことか」("Northern Minnesota, 1986 - How free they were.")

という見出しがつけられています。
『マディソン郡の橋』は、

 「どこにでもある田舎道の土埃のなかから、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある。」

という一文で始まります。これだけでもう十分です。後は埃っぽい田舎道のでこぼこに合わせるように高鳴る鼓動に身を委ねるだけでした。自由が心の中に広がるものだと知ったのは、ロバート・ジェームズ・ウォラーさんのおかげです。

遥か遠くに聴こえる小さな音に耳を傾け、彼の地にいるあの人やこの人のことを思い浮かべながら、生かされている毎日を元気に生きようと思います。

824

| | コメント (0)

2017年3月10日 (金)

ジャンバー。

この間、二日ぐらい続けて思い出したようにまた雪が降りましたが、昨日、今日と暖かい日が続きました。昨日は夕方になって保育園に息子を迎えに行く時にジャンバーを着ずに出かけそうになりました。でも夕方になるとさすがにジャンバーなしで出かけられるほどは暖かくないので、慌てて家に取りに戻ったのですが、今日はジャンバーを着ずにそのまま出かけてしまい、しばらく気づきませんでした。

ところで、「ジャンバー」と口にするたびに実はちょっと引っかかります。なんか世代が少し上のような気がするのです。じゃあ、何と言えばいいのか、ということになりますが、「ジャンバー」を上回ってしっくりくる言い方が思いつかないのです。「上着」というとなんかもっとちゃんとした上着のような気がするし、コートじゃないから「コートを着ずに……」と言い換えるわけにもいかないし、もちろん「アウター」とか言わないし、「ダウンジャケットを着ずに……」と言えばダウンジャケットじゃなくてジャンバーを着て出かけたのかとなるし、「モンベルのスペリオダウンを着て……」なんて商品名を出したところで自分でも落ち着かないし、だから結局「ジャンバー」と言い続けています。

さらに、息子がどういうわけか寒くてもジャンバーを着るのを嫌がるので、「外は寒いからジャンバー着んとあかんよ」、「ジャンバー着んっ!」と毎朝のように言い合っていて、うちでは「ジャンバー」という単語の使用頻度が特に冬の間はとても高く、息子も当然のように「ジャンバー」と言っています。「ジャンバー」と言うとなんか世代が少し上のような気がする、とか言いながら下の世代にまで「ジャンバー」と言わせてしまっているのです。それで余計に、「ジャンバー」という言い方に引っかかっているところもあるかもしれません。それにそもそも、「ジャンバー」じゃなくて「ジャンパー」なんじゃないかという不安も拭いきれないし。

この問題は、おそらく解決しないまま春になって忘れてしまって、次の冬を迎えてまた思い出すことになるはずです。そうやってもう何年も過ごしてきてしまいました。

823
↑ジャンバー。

| | コメント (0)

«「あみだ寺の比丘尼」