2017年4月29日 (土)

ライクアローリングストーン。

今日は息子を連れて近くの総合運動公園に遊びに行くと、陸上の大会があったみたいで、メインスタンド周辺でもウォーミングアップに余念がない選手たちや応援の人たちでいっぱいでした。

息子もいつもと違う様子に気づいてお祭り気分になったみたいで、アップする選手を追いかけて走ったり、人が多くて走っているうちにパパとはぐれそうになって慌てて戻ってきたり、そんなことをしているうちにどうやらスタンドの入り口までやって来たので、一緒に入ってみました。

次の走者にバトンを渡すまで精一杯走って、バトンを受け継いだ次の走者は勢いよく飛び出して、それを周囲で応援する人たちがいて、手を抜いている人はあの中にたぶん一人もいませんでした。

ああ、まさにこういう感じです。結果として一位になれなくても誰にも勝てなくても、レースの間やレースを迎えるまでの日々の中で、たぶん誰も手を抜いていないのです。手を抜いたなと思ったらその分を取り返そうとしただろうし、取り返せないまま今日を迎えてしまった人は明日から態度が変わるはずだし、いずれにしても澱みがありません。

まるでライクアローリングストーンです。これがライクアローリングストーンだと思ったのです。

869

| | コメント (0)

2017年4月28日 (金)

しゃぼん玉。

夕方、保育園から帰ってきた息子と一緒に、妻が洗面器に作ったしゃぼん玉をして遊びました。あんまりうまくできなかったけれど、それでもぷくーっと膨らむしゃぼん玉を見て息子は大喜びで、保育園でもときどきやるみたいだけど、膨らむそばからぱちんと割ってはわーわー言って、その無邪気な笑顔になんかとてもじんわりしました。

途中、隣りののんちゃんも出てきて一緒に遊んだのですが、息子は一気に緊張してしまって、うちではのんちゃんのんちゃんと言っているのにものすごく大人しくなって、そういうところは昔の自分を見ているみたいで、愛おしくもあり申し訳なくもあり、がんばれーと思いながら、ご飯の時間になるまでしゃぼん玉をぷくぷく膨らませて遊びました。

868

| | コメント (0)

2017年4月27日 (木)

「太陽」

湊かなえさんの「太陽」を読みました。これも『絶唱』に収録されている話です。「楽園」「約束」「太陽」「絶唱」の四編が収録されているのですが、どうやら全てが関連しているようです。トンガ王国と阪神大震災が共通する大きなキーワードになっていて、人物も主人公を変えながらタイトルを超えて登場しています。「太陽」の主人公は、「楽園」では身勝手な女としか思えなかったキョウコでした。

でも、そんなキョウコさんの身の上を知ることで、身勝手なだけではない事情や気持ちが分かり、少しいじらしくなりました。「楽園」では主人公だった毬絵の立場からしかキョウコさんのことを見られなかったので、身勝手だな、本当に、としか思えなかったのです。そうやって、キョウコって身勝手な女なんだよ、という風評が流布していくんだと思います。穴があったらしばらく入っていたいです。

大学時代にWallas Terryの『Bloods』という本を読みました。ベトナム戦争に従軍した何人かの黒人兵たちを取材した「オーラル・ヒストリー」です。これを読んだ時に、戦争に限ったことでも事の重大さによることでもなく、事件や出来事は「一つ」でも、そこに関わってしまった人生は人の数だけあるということを思い知りました。今もその思いはいつもぼくの基準になっています。ひとまとめにすることをとても虚しく感じるのです。だから肩書きとか窮屈でたまりません。

周囲の無関係な人間から身勝手だと思われるに至った理由や経緯は人それぞれで、だから軽々しく誰かのことを身勝手だなんて言うべきではないし、ちょっとでもその人の事情を知ったら少しは気持ちが分かるのかもしれません。身勝手を経て何かに気づいて、身勝手じゃなくなる時期がその人のこれからの人生の中に訪れるかもしれません。人生は他の誰のものでもなく、その人自身のものなのです。当たり前ですが。

人生はなんてもどかしくて愛おしいんだろうと思います。

867

| | コメント (0)

2017年4月26日 (水)

「楽園」

湊かなえの『絶唱』に収録されている「楽園」を読みました。五才の時、神戸の祖父母の家に遊びに来ていた時に阪神大震災が発生し、家が全焼して双子の妹の雪絵を亡くした毬絵(まりえ)が、20歳の誕生日を前に、心に負ったある傷を精算するために「楽園」を探し求める話です。

楽園はトンガ王国にありました。トンガ王国には島がいくつもあって、どの島のどこに探し求める楽園があるのか、旅の途中で出会った日本人やトンガ人と触れ合ったり衝突したりしながら、毬絵がどうやら無事に20歳という大きな節目の年を迎えられそうで、そしてそこから先の人生を豊かに生きられそうで、若さの素晴らしさがいっぱい詰まったいい話でした。

作者の湊かなえさんは青年海外協力隊の一員としてトンガ王国で暮らしていたことがあるとのことで、色んな時間帯の島々の美しさや何もなさなどが豊かな色彩で描写されていて、行ってみたいなあ、と思わせられました。

トンガ王国というのは、南太平洋のポリネシア最西端にある群島から成る王国です。フィジーとかサモアの近くのようです。

867

| | コメント (0)

2017年4月25日 (火)

『Serious Moonlight』

デヴィッド・ボウイのライブDVD『シリアス・ムーンライト』を観ています。『レッツ・ダンス』(1983)リリース後に全世界の大型アリーナやスタジアムを回った「シリアス・ムーンライト・ツアー」から、カナダでのライブを収録したものです。ヒット曲が満載で、ステージの演出からバンドメンバーの振り付けに至るまで、どこをどう切り取っても満足できる究極のエンターテインメント・ショーです。

デヴィッド・ボウイはほわほわのリーゼントに、淡い水色のスーツを着て、見ていて気絶しそうになるほどカッコいいです。声がとてもセクシーで、迫力があって、こんなにカッコいいデヴィッド・ボウイがここまで徹底して格好をつけにかかってきたら、そらこれぐらいは余裕でカッコよくなるだろうと思います。

そういえばたぶんぼくはアンダーグラウンドでグラマラスなジギー・スターダストのライブしか観たことがなかったのだと思います(もちろんビデオで)。だからここまで派手で大がかりでゴージャスなコンサートは意外でした。

でも一曲目の「Look Back In Anger」からさっそくカッコよさは突き抜けていて、意外だなんて感じたのは一瞬で、この眩いばかりに華やかなステージの虜になっていました。これは楽しいライブだっただろうなあと思います。

866

| | コメント (0)

2017年4月24日 (月)

『なぞなぞライオン』

佐々木マキさんの『なぞなぞライオン』を読みました。森できのこをとっていた女の子の前に、人食いライオンが「こども、おまえをたべてやる!」と叫びながら飛び出してくる話です。

女の子は慌てて逃げようとするのですが転んでしまい、ライオンが大きな口を開けて飛びかかろうとしたまさにその時、「ちょ、ちょっとまって。そのまえに、なぞなぞしない?」と言って、なぞなぞの勝ち負けで、食べられるか家に帰してもらうかを決めようと提案するのです。

そしてもちろん、なぞなぞが得意中の得意のライオンはその提案を受け入れて、なぞなぞ合戦が開始されます。そしてこうなるとだいたい、最終的には食べられずに済むんだろうなという予想どおりなのですが、その最終局面に向かうまでの展開がとてもユニークです。ライオンと一緒にお風呂に入ったりしています。

他にも「ヘビは、はやくち」と「しりとりなサイ」の二篇が併録されていて、これもだいたい予想がつくとおり、同じような展開です。でも、それでいてライオンもヘビもサイもオリジナルの個性を持っていて、かつ三者とも愛嬌があって、この女の子とライオンとヘビとサイは、まるで三蔵法師と孫悟空と猪八戒と沙悟浄みたいです。

三篇とも終わりにそれぞれライオン、ヘビ、サイを主人公にした「おまけ」のような六コマ漫画があって、それがまた、一コマ読み進めるたびに全身の力を一コマ分ずつぼとぼとと落としてしまいそうになるほどのおかしさです。

865

| | コメント (0)

2017年4月23日 (日)

『西風号の遭難』

オールズバーグの『西風号の遭難』(村上春樹 訳)を読みました。絵本です。

どれもこれも、不思議な絵だなあ、と思いました。波の高い海に浮かぶヨット、凪いだ海と迫りくる雲、打ち上げられたヨットの残骸、停泊するヨット……、などが描かれているのですが、懐かしさを覚えそうなほどリアルに感じる一方で、この世のものとは思えない、どこにもありそうにない不思議な印象を受けます。それでじーっと見入ってしまって、飽きることがありません。不思議な絵だなあと思います。

物語も、不思議な話だなあと思いました。冒頭で出会った老人が、ある一艘のヨットにまつわる風変りな話を「私」に聞かせてくれるのですが、そこまでの経緯も聞かせてくれた話も、風変りなだけでなくとても興味深いものでした。

自分の世界を持っている人は、周りの人たちと馴染むことが困難な場合もあるけれど、生き生きとしています。だからこそなかなか巡り合えない理解者の存在は有り難いし、時々美しくも哀しい目をするのかなと思います。

老人の話の中では、村の大人たちと比べてもヨットを操るのが上手だった少年が主人公なのですが、絵の中に登場する少年は、顔が描かれていません。だから表情から推し量ることができず、それもミステリアスな雰囲気をまとった絵本になっている理由の一つだと思います。

読んだ後もしばらく絵を眺めながら、少年と、話し終えて波止場に向かった老人に思いを馳せてしまう、不思議な絵本でした。

864_2

| | コメント (0)

2017年4月22日 (土)

『シャーロック・ホームズの冒険』

妻が大大好きなんで買ったのですが、うちはDVDプレイヤーしかなくて、しかもそれがずっと壊れたままだったので、慌ててブルーレイプレイヤーを買いました。昨夜さっそく妻が観ていました。観終えて、うちのリビングをホームズの事務所みたいにする、と言っていました。

863

| | コメント (0)

2017年4月21日 (金)

例外。

昨日、『若きウェルテルの悩み』の巻末に収録されている解説を読んでいると、ゲーテには、

「弟妹は五人あったが、すぐ下の妹コルネーリアのほかはみな早世した。」

とありました。五人のうち一人を除いてみんな、つまり四人は早くに亡くなったということですが、一人はそうでもなかったのです。それでも「みな」という言葉を使っていて、なおかつ、おかしな感じがしません。

普段スーパーのアイスクリーム売場などで、「全品四割引き! 一部対象外あり」といった表示を見ると、「なんなんそれ」としか思えないのです。しかもどの商品が対象外なのか分からなかったりすると、望んでもいないリスキーなチャレンジを挑まれているように感じてしまいます。

でも、「弟妹は五人あったが……」という一文を読んで、「一部を除いて全品四割引き!」だったらそうでもないのかなと思えたのです(それでもどれが「一部」に該当する商品なのかは教えてくれないと落ち着きません。ゲーテの場合も、「すぐ下の妹コルネーリアのほかは」とちゃんと具体的に書いているからこそおかしな感じがしないのです)。

例外がある場合は最初に断っておくという礼儀か、最初に大きなことを言わないという慎み深さ、もしくは細かいことをいちいち気にしないという戒めだと思います。

知らんけど。

862

| | コメント (0)

2017年4月20日 (木)

『若きウェルテルの悩み』

読みました。最後の十数ページは息が詰まりそうでした。「第一章」、「第二章」、そして「編者から読者へ」と三つの章から成るのですが、全217ページを大きく前半と後半に分けるとすると、215ページまでが前半で、残り2ページが後半です。213ページの差を埋めるに十分なほど、最後の2ページは濃密です。澱んでいるのかと思うほど深く、固形かと思うほど揺るぎなくどっしりと静謐です。頭を抱えてしまうしかありません。こんなにも大きく一途な悩みを抱えてしまった若きウェルテルに差し伸べる手はなかったのかと思います。手は頭を抱えるためではなく差し伸べるためにあるのだと強く思いました。

第三章にあたる「編者から読者へ」の章が始まるとすぐに、やがて訪れるウェルテルの不在がほのめかされます。この最終章に「編者」を登場させることで、それまでの二章で自らの想いのみを書き連ねてきたウェルテルの言動や精神状態を分析し、それらが(もちろん)ことごとく的を射ているために、ウェルテルの告白が一人よがりなものでもなければ誰にも理解されない類のものでもなく、編者という第三者に理解され包容されていることが伝わってきて、読んでいて少しは安堵でき、だからこそ、ほのめかされたとおり実行に移される不在にたとえようのない哀しみを覚えます。

ウェルテルはシャルロッテを想う気持ちの激しさゆえに精神の調和を乱し、シャルロッテに対しても、シャルロッテの夫であるアルベルトに対しても、皮肉、卑屈、嫉妬を隠しきれなくなります。辛うじて残されていた良心が、絶望としてではなく希望として自らの不在を願うようになるのです。

「扉が閉じられた。」(p.201)後、そこに残されていたのは潜める息と絶望だけとしか思えなかったのですが、それでもウェルテルは本気で希望を見い出していたのです。あまりに哀しい新たな希望です。最後の二ページに至るまで手紙を書き続けたことは、自らの言葉に託したい想い、言葉に託すしかない想いがあったからです。ウェルテルは最期まで、ピュアで清らかで無垢で純真でした。

こうして日記を書いていても、思い出して泣きそうです。ウェルテルがシャルロッテに対して募る想いをどうすることもできずにウィルヘルムに手紙を書き続けたように、ぼくもウェルテルのことを想いながらいつまででもこの日記を書き続けられそうです。

857

| | コメント (0)

2017年4月19日 (水)

いつもの朝。

毎朝、息子が階段を駆け上がって来て、「あさになったよ、あかるくなったよ」と起こしてくれます。布団をひっぺがして、ぼくの頭を抱えて、よいしょ、よいしょと、実際に起こしてくれるのです。そして横にぺたんと座って、首を傾げて「もうおきた? ねた?」と訊いてきます。それでもぼくがぐずぐずしていると、「もうねるじかんじゃないよー」と大きな声で言いながら手を引っぱって立ち上がらせて部屋から引きずり出そうとします。なんてかわいい。

「あー、もう起きなあかんなー」と思いながら布団から出られずにいる時に、息子が下の部屋のドアを開ける音が聞こえた時点でもうかわいいです。息子かわいけりゃ息子がドアを開けた時の「カチャ」という音までかわいい。

本当はもうとっくに起きているんだけど、息子に起こしてもらいたいから布団の中で待っているんですということにしたいです。

861

| | コメント (0)

2017年4月18日 (火)

『若きウェルテルの悩み』(第二部)

『若きウェルテルの悩み』(ゲーテ)の第二部を読みました。婚約者のいるシャルロッテに恋をしてしまい、第一部の最後で自ら身を引き、遠く離れた地に引っ越していったウェルテルですが、なんと、第二部の途中で、また戻って来てしまいました。

新しい土地で官職に就いていたのですが、卑俗な上司に我慢がならず、身を寄せた気の合う公爵のところにも結局落ち着くことができず、「そうだ、ぼくは放浪者にすぎぬ。この世の巡礼者だ。」(p.128)とか言いながら各地を放浪しつつ、「ぼくはただ少しでもまたシャルロッテの近くへ行きたい。」(p.128)という言葉どおり、心のままに、戻って来てしまうのです。

だからといってもちろん恋が叶うはずはなく、それどころかシャルロッテは婚約者だったアルベルトと結婚していました。その経緯も第一部同様、ウィルヘルムは受け取った手紙で事細かに知らされています。大変です。

ウェルテルがじわりじわりと味わっているのは、失うことへの恐怖だと思います。叶わぬ恋だということは十分すぎるほど分かっているのですが、近くにいることすら許されなくなるのではないか、そうなると自分は忘れられるのではないか、自分を失った彼らも果たして同じような恐怖を感じてくれるのだろうか、という恐怖から、存在そのものに対する不安に苛(さいな)まれ、蝕まれていっているように感じます。

自分でも何をやっているのかという思いはあるはずですが、もうどうすることもできない思い、進行を止めることのできない恐怖です。それは焦燥感にもつながって、心のバランスが崩れて振り回されて、自分のことを無力としか感じられず、だけどその原因を自分の中にしか見い出そうとしないのは、危うさが裏側にぺたりと貼りついたウェルテルの潔さです。

第二部を読み終えてページをめくると、「編者より読者へ」という章が始まっていました(第三部ではなく)。これまでは徹底してウェルテルからウィルヘルムへの手紙だけだったのに、ここに来て「編者」から何やら解説らしきものが挿入されて、またどうやらウェルテルの手紙もあって、さらにいわゆる小説の地の文みたいな箇所もあるようだし、自由だなあと思います。

>>> 『若きウェルテルの悩み』(第一部)

860

| | コメント (0)

2017年4月17日 (月)

源から送り込まれてくる素。

中学校の時、休憩時間が終わって授業が始まって先生が教室に入ってきても、だいたいまだざわざわしていましたが、数学の先生は、「さっ」と言ってまだ休憩時間気分の抜けきらない生徒たちに集中を促し、気持ちを切り替えさせていました。「さあっ、始めましょう」という意味です。何かしようとする時に、「さっ」と言うのが地味に流行りました。

「さっ」と言うなどして、意識的に気持ちを切り替えるのはとても有効だと思います。でも、どうせまたすぐにだらだらしてしまいます。だからそうなってきそうな時にはもう一回、今度は心の中で「さっ」と言ったり、「よしっ」、「よっしゃ」、「さあ、やるぞー」とか何でもいいけど掛け声みたいなのを自分でかけるのですが、それは眠いのに何とか起きておこうとしたところでせいぜいかろうじて起きていられるだけでしかないのと同じで、授業が終わるまで何とか気持ちを切り替えようとし続けられるだけでしかなく、それで授業に集中できたわけでも生産的な時間を過ごせるようになったわけでも絶対にありませんでした。

今は「さっ」とか頭で言わなくても、もっと心の奥の方にあるぼくの源みたいなところから、集中の素みたいなものが全身に勢いよく送り込まれてくるので、切り替える必要とかそもそもまったくありません。やりたいと思っていることを、やりたいように、やりたいだけやっています。まだちょっとペースを取り戻しきれずにどたばたしてしまっているので、もっと進め方をスマートに整理して落ち着かせたいとは思っているのですが、どたばたしている部分も含めてこのままがたがたと引きずり回しながら進んでいくのもしばらくはいいかなと思っています。天候とか体調とかに、あんまり邪魔されなくなってきました。

と書くと、自分でも本当にその気になってきました。今日の日記は「さっ」に代わる掛け声みたいなもんです。

859

| | コメント (0)

2017年4月16日 (日)

裏の庭にバラが咲いていた(しかもいっぱい)。

まだ庭の大掃除をしています。今日は息子も張り切って、いつものほうきを駆使した掃き掃除だけでなく、ホースを持って窓ガラスや壁にびしゃびしゃと水をかけたり、スコップとバケツを持ちだしてきて砂利を入れて水を入れてお米をとぐ真似をしたり、そこに葉っぱを浮かべてぐるぐる回したり、泥んこになって遊んでいました。案の定、なかなか家に入りたがらずに大変でした。

今日はこれまで手つかずだった一画にいよいよ踏み込んだのですが、とてもかわいい花がいっぱい咲いていてびっくりしました。たぶんバラです。どこからどう伸びているのか、とげとげのある蔓が木という木の枝という枝に絡まり巻きついて、ちょっとした天蓋のようになっていました。

でもここをどうにかすっきりさせないと、狭い庭にはびこる密度が100%にも迫ろうかというジャングルの開拓は終わりません。なので、上のほうのバラを残しながら、せめて息子の手の届く高さまではすっきりさせるべく、ざっくざっくと切っていきました。

ここをあと一日ぐらいの作業で片付けて、あともう一か所あるので、今月中にはなんとか目途を立てたいと思っています。そして夏には心置きなくビニールプールを出して息子とはしゃぐ気満々です。

858

| | コメント (0)

2017年4月15日 (土)

『若きウェルテルの悩み』(第一部)

『若きウェルテルの悩み』(ゲーテ)を読んでいます。第一部を読み終えました。第一部があってその後に第二部が続くという構成になっているなんて知らなかったし、そもそもどういう話かも知らないままに読み進めているのでとてもスリリングです。

読み始める前からうすうす気がついていたのは、主人公がウェルテルという若者だということと、何か悩みがあるんだなということぐらいでした。読み始めて分かったのは、ウェルテルが友人のウィルヘルムに宛てた書簡体形式で話が進むということと、ウェルテルは婚約者のいるシャルロッテに恋してしまったということです。それは確かに悩ましいことになりそうです。

シャルロッテも婚約者のアルベルトもいい人で、ウェルテルの好意を好意的に受け止めてくれて、それがかえってウェルテルには辛くなってくるのです。ウェルテルは思いの丈をシャルロッテにもぶつけるし、ウィルヘルムに宛てた手紙の中にも書き連ねるし、その張り裂けそうな胸の内がこっちの胸まで張り裂けそうになるほど伝わってきます(こういう手紙を、ウィルヘルムは三、四日おきに受け取っているのです)。

ウェルテルの恋の行方がどうなるのか、とても気になるところですが、それは明日からの第二部の楽しみです。

第一部の途中、ウェルテルとシャルロッテとアルベルトが三人で大きな栗の木立ちの下の高台で、美しい月光に照らされながら話をするシーンがあります。その時にシャルロッテが、「……亡くなってしまった親しい人たちはわたくしたちのことを知っているでしょうか。わたくしたちが元気でいて、やさしい愛情でその人たちを偲んでいるってことを感じてくれるのでしょうか。……」(p.95)と常日頃不安に思っていることを口にします。

びっくりしました。これはぼくも小学校五年生の時からずっと、考え出すと眠れないどころか怖くてたまらなくなるぐらい不安に思っていることなのです。せめて自分なりの答えでも持てたらもっと心が休まるだろうにと思っては居ても立ってもいられなくなります。

息子が遊んでいて何か面白いことを見つけたら、ぼくや妻に「みててねー」と言ってもう一回それをやってみせてくれることがあります。それと何も変わらない気持ちです。だからぼくたちは、いつもちゃんと見てるよと、だから失敗してもいいよ、何度でもやってみせてねと、いつもちゃんと見てるから安心していいよという思いで息子と接しています。

シャルロッテのこの告白がこの後の展開に関係してくるのかどうかは分かりませんが、18世紀のドイツですでにゲーテの心にあったことが、21世紀に入って松江にいるぼくの心をこんなにもざわつかせているなんて、不思議な気がする一方で、そういうものなのかなという気もします。

857

| | コメント (0)

2017年4月14日 (金)

「デイ・ドリーム・ビリーバー」

泣いた後みたいに頭がもやもやして鬱陶しいです。頭を振って振り払おうとするとがんがんするし。泣いてないのに。でももしかしたら泣いたかもしれません。どっちかです。どっちかと言うと、泣いたような気がします。そんな気がしてきました。タイマーズのビデオを観て、「デイ・ドリーム・ビリーバー」がかかってきて、ぐしゃぐしゃに号泣しました。そういえば。そうだった。泣いたんだった。

この曲を聴くと必ず泣く、という曲が何曲かあります(本当のことを言うと、何曲もあります)。必ずというのは100%ということです。毎回です。聴くたびに。例外はありません。一部対象外ももちろんありません。

「デイ・ドリーム・ビリーバー」はそんな一曲です。泣かなくてもいいと思うけど、明るく爽やかに笑いながら聴ける曲ではないと思います。でも泣けてくるのは、明るく爽やかに笑いながら歌われるからかもしれません。深い愛を知った時は泣くしかできません。深い愛を知った時は、ずーんと胸に重く響きます。その人の人生や、その時の気持ちや、馳せた思いに自分のそれらを重ね合せて、泣くしかできなくなるのです。泣けることとか、前面に出してくることではありませんが、ただどうしようもなく泣けてくるのです。どこで泣くかは内緒です。

856

| | コメント (0)

2017年4月13日 (木)

××。

あの家の屋根に上って、一つ目の角を右に曲がって次の角を左に曲れば一気に上に行ける。やっぱり戻るというのなら、右に曲れば最後は枝につかまって下に降りられる。

とか?

上だと思っているほうが下に見える人もいるかもね。

とか?

バツが二個だね。

とか。

855

| | コメント (0)

2017年4月12日 (水)

『草の葉(初版の序文)』

ホイットマンの『草の葉』を読んでいます。「初版(1855年)の序文」という章が冒頭にあるのですが、その最初のパラグラフがさっそくいいです。ちょっと長いのですが、書き出してみると――。


アメリカは過去を拒まず、たとい古い形式の下で、古い政治体制のさなかで産みだされたものであっても、たとい身分制度の思想であれ古めかしい宗教であれ、ともかくも拒まず――平然とそれらの教訓を受けいれ――すでに役目を果たした生命が今は新しい形式を得て生まれ変わっているというのに、意見や風俗や文学は未だに古い殻をつけたままだからとてけっして苛立つことはなく――その屍が寝室や食堂からゆっくりと運び出されていくのに気づき――それが戸口のところでしばしためらう姿に気づき――それがその時代には一番ふさわしかったのだと――そして今や登場を待つ頑健で見事な肉体をそなえた後継者の手中に活動のバトンが譲り渡され――この新たな彼も、やはりその時代には最適となるだろうと思うのだ。

というものです。これで一文です。長い一文の中にダッシュ(――)が多く、文中での役割が分かりづらいのですが、それを差し引いても、要するに自由だと、古さを判断の基準とすることなく、ともかくも拒むことはせず、歴史の流れを人の営みの奔流として、敬意を払いつつ判断を下し、そこに連なる自分の人生を自分は生きていくのだと、そういう大らかで頼もしくてかつ責任感に満ち溢れた宣言のように感じます。

これを個人に当てはめず、個人を埋没させてしまう大きな枠組みの中で捉えようと企むと物騒なことになりそうですが、そうなるともはや自由どころかその対極になってしまいます。自由は、誰かの顔色とか機嫌とか、何から何まですべてから自由であって初めて自由と呼べるのだと思います(受け入れるのももちろん自由です)。だからこそ勢いがあって魅力的なのです。

どんな言葉で何を主張しようとも、文脈が自分から逸れてしまえば、それはもはや誰かの言葉です。

854

| | コメント (0)

2017年4月11日 (火)

『ハツカネズミと人間』

ジョン・スタインベックの『ハツカネズミと人間』を読みました。1930年代のカリフォルニアで、二人の労働者ジョージとレニーが働いていた農場を追われ、辿り着いた次の農場で過ごした数日間を描いた物語です。

小柄で頭の切れるジョージは、愚鈍で大柄なレニーの面倒を見ながら農場を渡り歩いて日銭を稼いているのですが、二人はいつか小さな家と少しばかりの土地を買って、そこで「土地のくれるいちばんいいものを食って暮らす」ことを夢に見ていました。

新しい農場でもさっそくいろんないざこざが生じてはなんとか切り抜けながら、一日、二日とただ日々を重ねていこうとするのですが、二人のささやかな夢がもう少しでもしかしたら叶うかもしれないという時になって問題を起こしてしまい、やっぱりそこにもいられなくなってしまうのです。

貧しさにまみれて物事の大半が思うように進まず、物語としても悪い予感しか漂ってこない中でジョージとレニーの良心だけが読者としてはすがりつく希望のように思えました。二人にとっては、ささやかでも自分のものと言える家と土地を手に入れて、そこで豚を買ったりニワトリの世話をしたり、そんな夢のような小さな夢と、そしてお互いの存在だけが、生きていくために課せられる我慢のための拠り所でした。

気の合う人もいれば合わない人もいて、だけど誰もが自分の都合から逃れられずに、自分の幸せだけを追いかけているのだと思います。流れる川に日の光が反射し、川岸にはアライグマやシカなどの足跡が残る田舎の長閑な風景が描かれていますが、人の営みと雄大な自然とはそもそも相容れる類のものではないんじゃないかとさえ思ってしまいます。

叶うかどうかも分からない夢や目標を大事に抱えて必死に生きて、うすうすはそんなものは幻にすぎないと気づいている自分の気持ちに嘘までついて、そうやってでも生きていかなければならないことの虚しさにふと襲われたら、その時の恐怖や無力感には抗うこともふたをすることもなかなかできることではないと思います。

最後の10ページは、唇をかみしめながらレニーとジョージを応援していました。スタインベックの眼差しの優しさに救いを求めるしかない時代の物語でした。

タイトル("Of Mice and Men")は、スコットランドの詩人ロバート・バーンズ(1759-1796)の"To a Mouse"(ネズミへ)という詩のなかの一節から取られたそうです。人間は鍬を振るって畑を耕し、ネズミの巣をめちゃくちゃにしてしまうことがあるが、ネズミと人間の立場に大した違いはなく、人間の幸福もやはりいつ打ち砕かれてしまうかしれない、といったような内容の詩でした。悲劇も喜劇も、良心にさえ背いていなければ、本人としては受け入れざるを得ないと思えるものなのかもしれません。

853

| | コメント (0)

2017年4月10日 (月)

終わりのない旅。

先日、息子に本を買ってあげるために学園通りにある今井書店さんに行ったのですが、入ってすぐのところにどーんと村上春樹の新刊が積み上げられていて、そこに村上春樹さん翻訳の『グレート・ギャツビー』(フィッツ・ジェラルド)、『名前のない人』、『ハリス・バーディックの謎』、そして『ハリス・バーディック年代記』(オールズバーグ)がありました!

新作に合わせて展開するには、小説にしても翻訳にしてもエッセイにしても関連書籍にしても、たくさんありすぎるぐらいある中からオールズバーグの絵本が選ばれるなんて、なんて素敵なフェアなのかと思います。

本は、誰かにとっては常に必ず「新刊」です。ずーっと前に出された本でも、まだ読んでいない人がいる限り、その人にとってその本は新刊です。そしてどんな有名な本でも、まだ読んでいない人は必ずいます。だから本はいったん刊行されたら、その瞬間から本来それは終わりのない旅なのです。さまざまな事情で「終わり」がくることも場合によってはありますが、それまでは全力で、そんな終わりがくることなんて夢にも思うことなく、だけどいつ終わりがきてもいいぐらいの覚悟で、旅に出た本、出した本を応援したいと思います。

"Dream as if you'll live forever. Live as if you'll die today."(by J.D.) 

 
※『ハリス・バーディック年代記』(2015)は、『ハリス・バーディックの謎』(1990)という不思議な絵本の刊行25周年を記念して、その謎に迫るさらにミステリアスな一冊です。14の短編のうち、ぼくも2編の翻訳を担当させていただきました。

852

| | コメント (0)

«「Can't Get You Off My Mind」